「連盟脱退まで」
加藤陽子『それでも日本人は「戦争」を選んだ』より

Reading Journal 2nd

『それでも日本人は「戦争」を選んだ』加藤 陽子著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

4章 満州事変と日中戦争 連盟脱退まで

前節を受けこの節では、日本が国際連盟を脱退するいきさつを各国の状況とその駆け引きを通して説明されている。

(前節の)吉野作造のお話でいいたかったことは、リットン報告書が発表された一九三二年十月の時点で、日本社会のなかに、どれほど苦しくとも不正はするまいという古き良き時代の常識や余裕がなくなっていて、しかも日本側には、日露戦争に際して日本が世界に向かって正々堂々と主張できるような、戦争を説明するための正当性がどうも欠けている、そのような状態にあったということです。(抜粋)

日本はこのような状況であったが、それでも当時の日本人は世界が日本の主張を認めないならば国際連盟を脱退するというような二者択一で考えていたというとそうではないと著者は解説している。

連盟脱退の時の外務大臣の内田康哉(やすや)は、満州国承認の決意を表明した際、「国土を焦土にしても」という強い言葉を使った。この時の内田の真意は日本が強く出れば中国の国民党政府の宥和(ゆうわ)派の人々が日本との直接交渉に出てくるとの意図があった。そして蒋介石も日中の宥和を少しずつ進めていくことを日本に伝えてきている。
この内田のやり方は、内大臣だった牧野伸顕や天皇、そしてリットン報告書が審議される時に日本の全権となった松岡洋右などを不安にさせている。松岡は内田外相に

そろそろ強硬姿勢をとるのをやめないと、イギリスなどが日本をなんとか連盟に留まらせるように頑張っている妥協策もうまくいかないですよ、どこかで妥協点をみいだすか、よく自覚されたほうがよいですよ、(抜粋)

と言っている。

このように内田が中国側の妥協を待っている間に、この作戦を完全に打ちのめしてしまう事件が起こった。それは、陸軍の中国の熱河省への進軍である。当時の日本の認識では満洲国内の日本軍が治安維持のために満州国の一部である熱河地方に軍隊を移動するだけととらえていた。しかしこれは連盟規約の一六条に抵触すること、つまり「連盟が解決に努めているとき、新たな戦争に訴えた国はすべての連盟国の敵とみなされる。」という規約に抵触することを当時の斎藤首相が気づき天皇に熱河作戦の閣議と裁可を取り消して欲しいと頼んだ。しかし侍従武官や元老の西園寺公望の意見は消極的であった。

クーデターを怖れる元老や宮中側近に阻まれた斎藤首相は、やむなく、二月二十日の閣議で、このままでは連盟から経済制裁を受ける恐れが出てくること、また除名という日本の名誉にとって最も避けたい事態も考えられるとして、連盟が準備していた日本への勧告案が総会で採択された場合には、自ら連盟を脱退してしまう、という方策を選択することになりました。(抜粋)

この決定の二日後に熱河作戦は決行され、そしてその二日後松岡が国際連盟総会の議場から退場し日本は国際連盟から脱退した。

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