自殺と戦場での「処置」 — 死にゆく兵士たち(その3)
吉田 裕 『日本軍兵士』より

Reading Journal 2nd

『日本軍兵士』 吉田 裕 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第1章 死にゆく兵士たち — 絶望的抗戦期の実体I (その3)

今日のところは「第1章 死にゆく兵士たち — 絶望的抗戦期の実体I」の“その3”である。これまで、アジア・太平洋戦争での犠牲者のうち“その1”では、主に「餓死者」を、“その2”では、「海没死」「特攻死」を取り扱った。

そして、今日のところ“その3”では、「自殺(自決)」「処置という殺害」さらには、「日本兵による強奪・襲撃」が取り扱われる。最後の強奪・襲撃には、人肉食のための殺害まで行われたことが明らかにされている。それでは、読み始めよう。

3 自殺と戦場での「処置」

次に、形式上は戦死、戦病死に区分される場合が多いものの、実態上はそれとは異なる死のありようについて取り上げよう。(抜粋)

自殺(自決)

私的制裁と自殺

まず著者は、幾つかの資料により、アジア・太平洋戦争前から日本軍の自殺者は多かったとしている。

その背景には、古参兵や下士官による苛酷な「私的制裁」があったからである。そしてそれには、

兵士の人間性や個性をそぎ落とすという面では、命令に絶対服従する画一的な兵士をつくりあげるという「教育」的効果を持っていた。(抜粋)

そのため、軍内では、建前では私的制裁の根絶を強調していたが、軍幹部は私的制裁を容認あるいは黙認していた。

ここで著者は、軍は一般の国民生活とは違うため、それに順応できない「不良素質者」は、隊内から除去すべきであり、そのため自殺者をゼロにすることは困難であるという、軍幹部の発言を紹介している。

しかしこのような考え方では、現役徴収率の低い平時、つまり、徴兵検査を受検したものの内、壮健なもののみ入隊しいた時はともかく、戦争が激化し現役徴収率が引き上げられると、この「不良素質者」が多く入隊するため、総力の現実に対応できなくなってしまう。

いずれにせよ、日本の陸海軍は兵士を自殺に追いやるような体質を持っていたと言うことができるだろう。(抜粋)
インパール作戦と硫黄島攻防戦での自殺の事例

この自殺の総数については、正確にはわからないとし、ここでは絶望的抗戦期の部隊史からインパール作戦硫黄島攻防戦での自殺について戦記をもとに示している。

インパール作戦は補給を無視した無謀な作戦のため多くの餓死者や戦病死者を出した戦いである。その退却路は「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれた。このような苛酷な行軍時では、自ら命を絶った兵士の存在が数多く記録されている。さらに、捕虜になることを事実上禁じた「戦陣訓」の存在もあり、動けなくなった傷病兵は捕虜になる可能性を恐れ自殺した。

さらに硫黄島攻防戦に参加し生き残った鈴木栄之助は、日本軍守備隊の死者の内訳を

  • 敵弾で戦死:三〇%

残りの七〇%のうち

  • 自殺:六割
  • 他殺(捕虜になるなら殺すというもの):一割
  • 事故死(爆発死、訓練時の死亡):一部

という記録を残している。この硫黄島の戦いは米軍上陸後約一ヵ月で終わっているため、純粋の戦病死は少数だった。

処置という殺害

形式上は戦史か戦病死に区分されるものの、実態上はまったく異なる死のありようとして、非常に数が多いのは、日本軍自身による自国軍兵士の殺害である。その一つは「処置」などと呼ばれた疾病兵の殺害である。(抜粋)
捕虜となることを禁じた『戦陣訓』

一九三五年に日本は、戦地における傷病兵は「国籍の如何いかんを問わず」、人道的に処遇し治療にあたらなければならないという、『ジュネーブ』条約を公布した。その中に、退去に際して傷病兵を後送できない場合、衛生要員をつけて、その場に残置し敵の保護に委ねることができるという条文がある。これは、傷病兵が捕虜になることを容認する条文である。つまり、この時点では、日本陸海軍ともに傷病兵が捕虜になることを国際条約上認めていた

しかし、一九三九年のノモンハン事件において、多くの日本兵が捕虜になる事態となった。この時、停戦協定の締結後に日本側に送還されてきた日本軍将兵に対し、陸軍中央は、将校は自決させ戦死の『名誉』を与え、下士官兵は、負傷者は無罪、そうでないものは、『敵前逃亡罪』を適用するという厳しい対応を取った(『日本人捕虜(上)』)。

捕虜になることを事実上禁じるという方針の明確化は、傷病兵や衛生要員の残置容認という従来の方針に見直しをせまるものとなった。(抜粋)

傷病兵や衛生要員の残置については、一九〇七年制定の「野外要務令」において、その残置を認めていた。その後も一九二四年の「野外要務令」においても残置する場合の規定が書かれている。しかし、一九四〇年の「作戦要務令 第三部」では、「死傷者は万難を排し敵手にまかせざる如く勉むるを要す」となり、傷病兵が後送できない場合は、自殺を促すか、何らかの形で殺害することを暗示させる表現となった。

このような流れは、一九四一年の東条英機陸軍大臣の示達した『戦陣訓』で決定的となる。

『戦陣訓』は、「生きて捕囚の辱めを受けず」という形で捕虜となることを事実上、禁じた。(抜粋)
ガダルカナル島の戦い、処置の始まり

この傷病兵の「処置」は、日本軍が優勢で傷病兵の後送に問題がなかったアジア・太平洋戦争の開戦後しばらくは、問題にならなかった。しかし、アメリカ軍の反攻作戦が始まると捕虜になることを防止するため、傷病兵の自殺の強要、殺害などが常態化する。

この処置は、ガダルカナル島からの撤退時が最初の事例となる。著者は、幾つかの資料を示してその状況を説明している。ガダルカナル島からの撤退時、自力歩行の不可能者は、現地に残置し、射撃可能な者は射撃を以て敵を防止、敵が至近距離まで接近したら、昇汞錠しょうこうじょう(毒性の強い殺菌剤)により自決するという措置がとられた。これが撤収にあたっての患者処置の鉄則であった。

陸軍内の処置の実例

アッツ島の戦いでは日本軍守備隊が米軍の攻撃で全滅する際に、全滅直前の最後の戦い(「万歳突撃」)に参加できない傷病兵は殺害もしくは、自決を強要された。

インパール作戦では、その退却時に多くの傷病兵が行軍途中で落伍した。そして、軍はその落伍者に容赦ない方針で臨んだ。中隊の最後尾に落伍者を収容する「後尾収容班」が作られたが、それは落伍者に、自決勧告をし、強要する班であった。また同班の解散後は「落伍者捜索隊」が編成され、落伍者を見つけると、歩けるかどうか問いただし、歩けない場合は自決を強要した。

もちろん、将校や衛生兵のなかには命令の実行をためらう者もいた。また、「処置」に抵抗する傷病兵もいた。

軍医による自傷者の摘発

この処置の問題と関連したものに、軍医による「自傷者」の摘発があった。

この自傷とは、戦意を失った兵士が最前線から離脱するために、小銃などで自らの身体を傷つけ戦闘で負傷したように装う行為である。このような行為は戦闘が激しくなるに従い増えていき、軍医の中には自傷者を見逃すものもでてくる。そのため軍は自傷者の摘発に力を入れるようになる。自傷行為についての判別法は事前に研究されていて、その結果自傷と判断できるものは、「軍法会議」で判断する余裕は第一線にはないので、厳重な注意をして前線に送り返した。

日本兵による襲撃と人肉食

日本軍兵士による自国軍兵士の殺害は、「処置」だけでなく食料などの強奪を目的とした襲撃があった。そしてそれは食料強奪のための殺害、さらに人肉食のための殺害まで横行するようになる。

フィリピンルソン島で終戦を迎えた元陸軍軍医山田淳一は、「日本軍の第一の敵は米軍、第二の敵はフィリピン人ゲリラ部隊、そして第三の敵はわれわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」と証言している。

さらに著者は人肉食について、ルソン島での事例を紹介している。この人肉食の先駆的研究としては、オーストラリア軍の史料に基づいた田中利幸『知られざる戦争犯罪』がある。

最後に著者は、軍法会議などの手続きを略した、「処刑」(死刑)もあったと付言している。

以上のように、約二三〇万人といわれる日本軍将兵の死は、実にさまざまな形での無残な死の集積だった。その一つひとつの死にかたに対するこだわりを失ってしまえば、私たちの認識は戦場の現実から確実にかけ離れていくことになる。(抜粋)

関連図書:
秦 郁彦 (著)『日本人捕虜 (上)』、原書房、1998年
田中利幸(著)『知られざる戦争犯罪』、大月書店、1993年

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