『日本軍兵士』 吉田 裕 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第3章 無残な死、その歴史的背景 (その2)
今日のところは、「第3章 無残な死、その歴史的背景」の“その2”である。“その1”では、「短期決戦の重視」、「作戦至上主義」、「極端な精神主義」という陸海軍の軍事的思想が取り上げられた。そして、今日のところ“その2”では、明治憲法に内在する「統帥権の独立」の問題、「国家諸機関の分立」の問題、「軍制改革の挫折」とそれに伴う「軍紀の弛緩と退廃」の問題を取り扱う。それでは、読み始めよう
2 日本軍の根本的欠陥
統帥権の独立と両総長の権限
このように国力を越えた戦線の拡大や、戦争終結という国家の意思決定が遅れた背景には、明治憲法の体制の根本的欠陥がある。その一つは「統帥権の独立」である。
ここで、統帥権とは陸海軍を指揮し統帥する権限のことをいい、明治憲法では「天皇は陸海軍を統帥す(第一一条)」と規定していた。これを根拠に統帥権は大元帥としての天皇の大権であり、内閣や議会の関与を許さないと解釈されていた。そして軍部はこの「統帥権の独立」を盾にとって政府のコントロールを排除していた。
ここで著者は、天皇を「輔翼」(補佐)する参謀総長(陸軍)や軍令部総長(海軍)の権限が、理念上小さかったと注意している。各軍の司令官や連合艦隊司令長官は天皇に直属し、天皇が発する最高統帥命令(陸軍:「大陸命」、海軍:「大海令」)に従って作戦を実行する。そのため参謀総長や軍令部総長は、各軍司令官や連合艦隊司令長官に命令を伝達し、その範囲内で権限を持っていたにすぎない。そのため、参謀総長や軍令部総長が、現地軍や連合艦隊を十分統制できないという事態が生じた。実際に真珠湾攻撃やミッドウェー作戦に関して、軍令部の中に慎重論があるにもかかわらず、山本五十六連合艦隊司令長官に押し切れる形で作戦が実施された。
このような両総長の権限を昭和天皇も正確に理解していたと著者は指摘している。国務大臣が天皇を「輔弼」(補佐)することは憲法規定されているが、両総長が天皇を「輔翼」(補佐)することは規定がない、そのため天皇は「統帥帥」に関しては自分が絶対者であり、最高責任者であると認識していた。
多元的・分権的な政治システム
「統帥権の独立」に並ぶ明治憲法体制のもう一つの欠陥は、「国家諸機関の分立制」である。
明治憲法では、国務各大臣が所管の事項に関して単独で天皇を輔弼する制度(単独輔弼制)を取っていた。そのため、各省の自立性が高かった。そのため内閣総理大臣の権限は相対的に弱く、内閣の首班として閣議を主催するものの、地位は国務大臣の一人にすぎず、国務大臣に命令する権限もなかった。
さらに、陸海軍の制度でも、陸軍省、海軍省が対等の関係で分立し、作戦や用兵を担う参謀本部と軍令部もそれぞれ陸軍省、海軍省から独立して存在していた。
さらに、内閣意外に参議院に対しては貴族院が拮抗、牽制する関係であり、昭和天皇が即位するとその側近グループが政治的影響力を持った。
このような複雑な制度がどうして取られたかについて、著者は、明治憲法の起草者たちが政治の一元化を回避し、あえて政治権力の多元化を選択したからであると、している。
彼らは、伸長しつつある政党勢力が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して天皇の地位が空位化するのを恐れていたのである。(抜粋)
国務と統帥の統合の試み
このような分立した国家システムでは、総力戦の時代の要請に応えられないため、国務と統帥を統一する試みがなされた。
日中戦争勃発後に陸海軍の最高統帥機関として大本営が設置された。しかし実質的には、参謀本部が大本営陸軍部であり、軍令部が大本営海軍部であった。そして大本営首脳部と政府首脳部を構成員として大本営政府連絡会議が設置され、重要な国策が決定される場合は、天皇が臨席し、御前会議となる。しかし、この連絡会議には、法的な根拠がなく、多元的で分権的なシステムもそのまま温存されたため、結局、国務と統帥の連絡・調整機関にとどまった。
そして首脳権限の強化にも力が注がれた。一つは、首脳の管理下に企画院、情報局などが設置し、首相権限を強化したこと。もう一つは、東条英機内閣時に制定された戦時行政職権特例である。これにより五大重点国防産業の生産増強に関しての指示権(命令権)が首相に与えられた。しかし、東条内閣でも、明治憲法の改正まではできず、首相権限の強化も限界があった。
このように日本は、統一した国家戦略を決定できる政治システムを持たないまま戦争を戦たため、戦線の拡大に歯止めをかけられず、戦争終結を決断できず、いたずらに時が流れてしまった。
そのため、すでに見てきたように、多くの兵士と民間人が無残な死を遂げる。こうした事態を生み出したのは、明治憲法体制そのものの根本的件感だった。(抜粋)
軍内改革の挫折
大正デモクラシー期に、労働運動や小作争議を経験した兵士たちの中には、上官の言動に批判的な視線を向ける者もいた。これに対して大正から昭和初期の陸海軍では、兵士の自主性をそれなりに認め、兵士の上官に対する一定の異議申し立てを認める方向で軍内改革が行われた。しかし、満州事変が始まるとそのような軍内改革は頓挫した。
日本の軍隊は天皇率の軍隊=「皇軍」であるというイデオロギーが急速に拡大し、「日本精神」がことさらに強調されるようになる。上官の命令は天皇の命令であるとして、上官の命令への絶対服従を兵士に強制する古い体質を温存したまま、陸海軍は総力戦の時代に突入していく(『日本の軍隊』)。(抜粋)
罪とされない私的制裁
日中戦争の長期化とアジア・太平洋戦争の開戦により、大量の「老兵」や「弱兵」が入隊してくると、私的制裁による自殺や脱走が問題になった。軍幹部はその「根絶」を繰り返し強調したが、下士官、下級将校のなかには、私的制裁を黙認する傾向が根強かった。そして私的制裁によって死亡した場合、公文書の偽造も行われた。
ここで著者は、この私的制裁の例をいくつか紹介している。
軍人の犯罪に適用される特別法として陸軍刑法、海軍刑法があり、「陵虐の罪」として、上官が職権を乱用して部下に対して残忍または苛酷な行為を行うことを禁じている。しかし 私的制裁は、「一時的な激憤」と解釈され、「陵虐の罪」に問われることはほとんどなかった。私的制裁が軍法会議で裁かれる場合は、ほとんど他の犯罪と関連した場合であった。
この古参兵が私的制裁を加える理由として、
- 四年、五年、長い者は七年も八年も戦地にいる古参兵にとって、私的制裁は、一つの憂さ晴らしであった。
- 今まで内地でくらしてきた新参者に対する嫉妬
- 長い戦地生活で残忍なことに神経が麻痺してしまったこと
などがある。
私的制裁は、人間的な感性をそぎ落とされ、その一方で軍隊生活に強い不満を持つ古参兵が、弱者に向けた非合理的な激情の爆発だった。(抜粋)
軍紀の弛緩と退廃
日本の陸海軍は、兵士の軍隊に対する批判や不満をそれなりにくみ上げ、いわば「体制内化」することによって、軍隊内秩序を安定化させる仕組みを欠いていた。(抜粋)
そのため、兵士の不満や批判の鬱積は、占領地住民への残虐行為となり、また、軍隊内でも、犯罪や非行が多発し、軍紀の弛緩・退廃を生み出すことになった。
アジア・太平洋戦争期では、上官の命令に対する不服従、上官に対する暴力、脅迫、侮辱、殺傷などの対上官犯や逃亡、奔敵(敵革への逃亡)が増大した。
中国戦線では、中国の思想工作により、それに共鳴した兵士が自ら敵に投じ、反戦活動などの「利敵行為」をするものも多かった。さらに満州では、脱走してソ連領に入った二人の兵士が、ソ連軍の「間諜」(スパイ)となって満州国に潜入し逮捕される事件が起こった。
ここで著者は、軍紀の弛緩・退廃の具体例として、東京の「浅草興行界の顔役」だった石山上等兵(前科五犯)と土木建設請負業者の顔役だった小野寺上等兵(前科二犯)がボスとなり、数々の事件を起こした事例について記述している。
こうした犯罪は非行の増大に対して、軍は有効な対策を講ずることができなかった。犯罪や非行を分析した先述の論文が指摘しているように、軍には、「犯罪等の防止対策においても、精神要素の涵養などの精神主義が基調となる傾向が強」かったからである。(抜粋)
関連図書:吉田 裕 (著)『日本の軍隊』、岩波書店(岩波新書)、2002年


コメント