猫神由来(後半)
田中 貴子 『猫の古典文学誌』 より

Reading Journal 2nd

『猫の日本文学誌』 田中 貴子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第七章 猫神由来(後半)

今日のところは、第七章「猫神由来」の”後半“である前半“では、著者と猫神との出会いと猫の瞳と時刻の関係が説明された。”後半“では、猫神の由来についてさらなる調査がある。そして最後は「ね・ここらむ3 猫の島」である。では、読み始めよう。

猫神の由来

ここまでで、猫の瞳で時刻を知る中国の古法は、中世には日本に伝わっていたことが分かった。そこで著者は調査を開始する。磯庭園に併設されている博物館・尚古集成館しようこしゆうせいかんの学芸員さんに話を聞くと、猫神についてのもっとも古い資料は、昭和六年発行の『磯乃名所旧蹟いそのめいしよきゆうせき』(鹿児島新聞)であることがわかる。ここには、猫神はもとから磯庭園にあったのではなく、城の北にある護摩所に祀られていたこと、そして猫が文禄の役に島津十七代の義弘公について渡海したことが書かれていた。しかし猫が何の目的で連れていかれたかということは全く記されていない。また、『薩藩旧伝集さつぱんきゆうでんしゆう』(薩摩叢書刊行会、一九〇八年)にも、猫神について書かれているが、これにも猫の役割は書いていない。

結局、猫の役割が資料に出てくるのは、昭和になってからであった。島津忠重ただしげの『炉辺南国記[ろへんなんごくき』(鹿児島史談会、一九五七年)には、猫神さまという石造の小祠は、朝鮮役に眼の瞳の大きさで時を告げるために伴われた猫を、のちに祀ったものであることが書かれていた。さらに、生き残って帰ってきた二匹の猫は、黄白二色の波紋で、義弘の次女久保ひさやすに愛されたためヤスと名づけられ、この地方では、のちもこの種の毛並みの猫をヤスと呼ぶようになったと書かれていた。

島津義弘は、慶長の役で秀吉と共に朝鮮に派兵した。著者は、この猫が従軍したとすればその中で「泗川の戦い」か「露梁津ろりようしんの戦い」可能性がある、としている。

著者は、このようなことが本当にあったか、信じられないとしながら、

もしかすると本当かもしれない、とも思う。だとすれば、世界でも珍し猫の従軍記だ。おやかたさまのために必死で戦ったヤスたちの霊が、この神社に祀られているといわれれば、信じたい気もするのである。(抜粋)

と言っている。

そして最後にこのように言ってこの章を閉めている。

今でもこの神社は時計業者によってお祭りがなされている。残念ながら取材はできなかったが、土地の人が過去の猫の死を「犬死に」にせず、大切に扱っているのを見ると、長い長い伝統というものをそこに感じるのである。大きな歴史の流れの中で、小さな猫たちが翻弄ほんろうされた。しかし、彼らの存在は今に伝えられているのだ。歴史の中で失われた小さな命たちの例が安かれ、と祈ってこの章を閉じたい。(抜粋)

文庫版の<付記>として、単行本版が出たのちに、鶴ケ谷真一氏より『猫の目に時間を読む』(白水社、二〇〇一年)が送られてきたと書いてある。鶴ケ谷さんはボードレールや中国の話を書き終えた直後に著者の本を手にしたとのことである。


関連図書:
田中祥太郎(著)『時計のかわりになった猫』、廣済堂出版、1987年
平岩米吉(著)『猫の歴史と奇話』、築地書館、1992年
鶴ケ谷真一氏(著)『猫の目に時間を読む』、白水社、2001年

ね・こらむ3 猫の島

古典文学には猫の島というものが登場する。ね・ここらむ3として、そのような猫の島が紹介されている。

『今昔物語』の巻二十六-九に、漂着して大蛇に助けられた漁師七人が、その島に定住するという話があるが、その島の名が「猫の嶋」となっている。日本古典体系本や新日本古典体系本では、この島が能登半島の端にある舳倉島へくらじまであるとしているが、舳倉島の昔話や伝承には、ここが「猫の嶋」と呼ばれた形跡はない。

『今昔物語』には、巻三十一 – 二十一に、もう一つ「猫の嶋」がでてくる。それはこれも新体系本では、舳倉島とされている。

安部清明あべのせいめいの誕生秘話が書かれている簠簋抄ほきしように清明は、猫島の生まれであると記されている。この猫島は、常陸国ひたちのくに、筑波根の麓にある島でない平地である。

清明の母は「化来の人」、つまり人間ではない者であったが、遊女となってあちこちを旅して生活しているうち、猫島である男にとどめられ、三年そこに滞在したというのだ。つまり、実質的に結婚生活を営んだのである。その間に清明が生れたという。(抜粋)

しかし、『簠簋抄』には、清明と猫島の関係は語られていない。

柳田国男は「猫の島」という小文を書いている(定本柳田国男全集第二十二巻)。柳田は「陸前田代」が「猫の島」であると言っている。著者は、この島は近年猫が住む島として有名になった田代島かもしれないとしている。
柳田国男は『今昔物語』にも言及して「或はずっと以前に猫だけが集まって住む島が有るやうに、想像して居た名残ではないかと思って居る」と述べている。
さらに『簠簋抄』にも言及し、ここは狐女房の話に付随して猫の不思議を説く者がいたのではないかと論じている。

著者は最後に「猫の島」をこのように推察していると論じている。

私は、猫の島は、いわゆる猫の「猫(根子)岳参り」に似た伝承と関わるのではないかと思っている。「猫(根子)岳参り」とは、民俗学ですでに指摘されているように、猫がいなくなったら、それはもっと力を増すために阿蘇の「猫(根子)岳」(阿蘇以外にも各地にあるようである)に参りに行ったのだ。と見なすものだ。現実には、こっそり死にに行った猫をそう言ったのだろう。「猫(根子)岳参り」から帰った猫は、姿形が変わってしまっているので、元の飼い主にはわからないそうである。それは猫の再生の儀式だったのだ。猫の島も、そうした猫の修行の場であったのではないか、と夢想するのだが・…(抜粋)

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