『なぜ古典を読むのか』 イタノ・カルヴィーノ 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
『ロビンソン・クルーソー』、商人が守るべき特性について
本書、『なぜ古典を読むか』ですが、このところ読みが停滞しています。何故かというと、次の「『狂乱のオルランド』の構造」が手ごわそうだからでして、パラパラ眺めるとイタリア語?といった引用がなされていて、さてと、どうしようかな?と思って止まっています。
そんな折、retoldのOXFORD BOOKWORMSですが、” Robinson Crusoe”を読みました。そういえば、この本にも、Robinsonあったな、と思い返して、順番が入れ子になりますが、読もうと思った次第です。
っと、いうことで、今日のところは、「『ロビンソン・クルーソー』、商人が守るべき特性についての帳簿」です。ここでは、『ロビンソン・クルーソー』の文学的位置やその内容、著者のデフォーの人生などについて書かれています。それでは読み始めよう。
近代小説の始まり『ロビンソン・クルーソー』
『難破した船の乗務員が全滅したにもかかわらず、ただひとり岸にうちあげられ、大河オリノコの河口に近いアメリカ大陸沿岸の無人島で二十八年間、孤独の人生をおくったヨークの人、水夫ロビンソン・クルーソーの生涯とその奇異にして驚嘆すべき冒険譚、さらに同様に奇異な状況のもとに、どのようにして海賊に救われたかの顛末についての実話。本人の自著による。これは一七一九年、ロンドンの大衆的な出版社W.テイラーの《船じるし》叢書の一冊として出版された『ロビンソン・クルーソー』の初版の扉の文章だ。(抜粋)
このように、ロビンソン・クルーソーは、当時の流行に乗り、難破した水夫の実話回想記として、売れればよい式の出版物として生まれた。
当時、金に困っていた誹謗文書きだったダニエル・ディフォーは、このような形で60歳を前にして初めての小説『ロビンソン・クルーソー』を送り出した。しかし、近代文学の創始者といわれるディフォーは、このような出版物にも関わらず、これらの出版物にある自分たちが道徳教育を担っているという使命感のようなものにも無関心ではなかった。
とはいっても、この本のしっかりした道徳的な骨格になっているのは、『ロビンソン・クルーソー』のページのあちこちを飾りたてている、一般的、短絡的な、読者の教化を目標とした説教ではなく、生活習慣、また生きるとはどういうことかについての考え、人間とモノの関係、また人間が手を使ってなにができるか、などについてをイメージ化するという、直截的で自然な方法で説明している点にある。(抜粋)
そしてこのように「商品」として企画されたという起源は、その後、商業と産業の模範とするべき行動のバイブルと呼ばれ、個人の創意についての叙事詩と称賛される本にとって不名誉なことではない。
ディフォーの経歴とロビンソン
冒険者で説経家というディフォーの特性は、その経歴からなる。彼は最初商人となり、そして破産するとホッグス党の顧問として誹謗文を書くことをする。そして、それがもとで入獄し、その後トーリー党のロバート・ハーレイに拾われそのスポークスマン兼スパイとなる。その後、ジャーナリストとして『ザ・レビュー』を創刊し、今では「近代ジャーナリズム」の発明者と呼ばれている。その後、ホッグス党、トーリー党と渡り歩き、最後に小説家となった。
そして彼に見られる冒険と実務的精神と倫理的悔恨の奇妙なまざりあいこそ、やがて太平洋の両岸におけるアングロサクソン的資本主義の基本を形成する素質に他ならない。(抜粋)
ロビンソンには、彼が書いた想像力でゆたかな細部を織り込んだ時事ニュースなどの経験が生きている。そして、それは倫理的、教育的な教条が織り込まれている。そして、ロビンソンの苦難は、ひとえにそのような教条に背いたからである。
ディフォーの文体とロビンソンの評価
ディフォーの文体は、十七世紀の美辞麗句や十八世紀の哀愁を帯びた文体とも違い、実務的であり、それ以前に誌的でありうる、地味で簡潔な文体である。著者はそれを「商取引の報告書」のような文体と定義している。
ディフォーの文体は、はだかであると同時に神経質なくらい細部に気を配ったものである。その細部を積み重ね物語に真実味を出している。ロビンソンでは、洞穴の住居や柵をどう作ったか、結果的には海まで運べなかったボートをどう作ったか、壺や煉瓦をどう作ったか、それらの詳細を正確に表現している。
ディフォーは、人間と物質とのあいだに長い苦しい闘いをうたい、仕事にたいする謙虚さとその困難と偉大さをうたい、われわれの手からモノが生まれてゆくことのよろこびをうたう詩人として、私たちの時代まで生きのびたのである。(抜粋)
ロビンソンは、自分の能力を試すことを人間の価値の指標とする人たちの師となっている。
『ロビンソン・クルーソー』が、絶えずあたらしさを発見しながら、一行、一行、読みかえすのにふさわしい本であることはたしかだ。(抜粋)
ここの話題は、ディフォーの文体の話かと思っていたら、するするっと、なぜ『ロビンソン・クルーソー』が現代まで読み継がれているか!って話になった。なるほどなるほど。(つくジー)
ディフォーとロビンソンとその他の小説群
ディフォー自身の行動、ロビンソン・クルーソー、そしてその後の小説群は、儀式の時間にはきっちり教会に行き、終わればすぐさま仕事に戻る、規律を守る商人そのまままである。これが彼の面白みになっている。
ロビンソンの限界
ロビンソンも当時の政治/宗教論争に無関係ではなかった。ロビンソンは
「たった三人しかいないわが臣民が、三つの異なった宗教に奉じていた。わがフライデーは新教徒で、彼の父は異教徒であり食人種であり、スペイン人は、なんと、ローマ・カトリック教徒だったからだ。そのようなわけで、私は、良心の自由をわが臣民に許すことにした」(抜粋)
と言っている。また、食人種についても、モンテスキューの随想がなければ、
「彼らは殺人者でなく、他の文明に属する人たちなのだから、異なった法律に従っていて、それはキリスト教界における戦争の風習と大差のないものだ」という結論に達することは、たぶんできなかったはずだ。(抜粋)
関連図書:
“The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe” by DANIEL DEFOE, retold by Jonathon Heap, OXFORO UNIVERSITY PRESS (OXFORD BOOKWORMS STAGE2), 2000
ダニエル・デフォー(著)『ロビンソン・クルーソー』、新潮社(新潮文庫)、2019年


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