オウィディウスと普遍的つながり— 『変身物語』 (後半)
イタノ・カルヴァーノ 『なぜ古典を読むのか』 より

Reading Journal 2nd

『なぜ古典を読むのか』 イタノ・カルヴァーノ 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

オウィディウスと普遍的つながり(後半)

今日のところは、「オウィディウスと普遍的つながり」の”後半“である。本章は、オウィディウスの『変身譚』(変身物語)の解説であるが、”前半“では、神々との接触というテーマの話、オウィディウスにおける神・人間・自然の均衡、そして、『変身譚』では、すべての神に扉を開いていることなどの話であった。

それにつづき今日のところ”後半では、内部空間の拡張としての物語の中の物語の手法臨場感を与えるリズム変身の仕方の法則、そして恋の物語のパターンなどについてである。それでは読み始めよう。

物語の中の物語、内部空間の拡張

ピュラムスとティスペの物語は、ミィニュアスの娘の一人が語る物語である。これはオリエントの物語からもらったものだ。オウィディウスは、物語のなかに物語をはめ込むことで、内部空間広げた

イノシシ狩りの話(第八巻)では、河に阻まれ先に進めない人々に、河の神が面白い変身の話をする。すると客たちもそれぞれ同じように物語る。すると、『変身譚』の物語がつぎつぎと結びあわされる。そして、詳細に考え抜かれた世界とは全く違うリズムが与えられる。

しかしこのような複雑な構造をオウィディウスが使うのはまれである。オウィディウスの才能は、系統立てでなく、積み重ねに注がれる。それを筋立ての多様化とリズムの変化に合わせている。

『変身譚』は速さの詩

『変身譚』は、速さの詩だ。すべてが急テンポのリズムで進行して、読み手の空想力を圧倒し、ひとつのイメージが他のイメージに重ねられたり、ふいにきわだつかと思うと、かき消える。(抜粋)

それはまるで一行が一コマの映画のようである。何ページも動詞は現在形のままで、隙間なく事件は次から次へつづく。

そして、リズムを変えたいときは、時制でなく、人称を三人称から二人称に変える。すると、喚起された人物がじっさいに目の前にいるような勢いとなる。

ときには、時間の経過を停止したように、物語をゆっくり進行させる必要があるときもある。そのようなとき、オウィディウスは、立ち止まり、細部をじっくり観察する。一つ一つの細部をじっくりと観察し説明を加える。こうしてオウィディウスは、光景を賑やかにすることで、かえって、乏しさ、あるいは休止の効果を生み出す。

オウィディウスの手法は、つねに足し算で、けっして引き算はしないのだ。どしどし細部に突っ込んでいくのが彼のやり方であって、曖昧のなかに消え去ることなどあり得ない。(抜粋)

『変身譚』の内部秩序の法則・その変身のしかた

その変身には、きびしい内部秩序の法則に支配されている。

それは、あらたに獲得される形態が、できるだけ多くのもとの素材を転用するという、変身自体の内包的な方法なのだ(抜粋)

著者は、その例として、洪水の後に岩が人間に変わったこと(巻1)、乱れ髪のダブネが植物に変わる場面(巻1)、沼のリキュアネエが涙にくれるあまり本当の池になってししまったこと(巻5)、そして、リキュキアの農夫が、池の水を濁らせてカエルに変えられた話(巻6)、などをあげている。

この変身の方法を研究したシチュグロフは、オウィディウスの変身は、事物を物理的または空間的な特徴で他の物から分けるときに用いるものであるり、オウィディウスは物質の特性を知り尽くしているので、形態を変化させるとき、一番近道をすると言っている。

オウィディウスの変身はおとぎ話の出来事ではなく、いかにもほんとらしい事実の積み重ねで表現される。

重要なのは、彼のように、「比較的少数の単純な基本要素のいろいろな組み合わせ」として対象を(動くものかどうかにかかわらず)(客観的に)(oggettivamente)描く手法であって、これこそ「もの、生き物をふくむ、この世に存在するすべてのもの、が単一であり、つながっている」という、『変身譚』が標榜する、ただひとつの、確実な哲学だ。(抜粋)

宇宙の生成の物語から恋の物語

巻一の宇宙生成の物語と、最終章のピュタゴラスの信仰の告白で、オウィディウスは、たぶん、自分とはかけはなれたルクレティウスに対抗して、この自然哲学に理理論体系を付与しようとしたのではないか。(抜粋)

ここで大切なことは、オウィディウスの詩的な一貫性である。それは似かよっていながら、たえず異なった出来事が、うごめき、もつれあうなかで、すべてのものが永続し、動くことを彼は讃える。

世界の起源と、原始の大惨事の将が終わらないうちの、オウィディウスは、ニンフや人間たちの娘たちへ神々の恋物語を始める。この恋物語にはいくつかの異なったパターンの定番といえるものがある。まずひとめ惚れがあり、性急な呼びかけが続く、しかし、求められた側はそれをこばみ、逃げる、そして森の中の追跡が繰り返される。そして変身は、誘惑者の変装、狙われた側の救われる手段、神の懲らしめ、などの機会に起こる。(ベルナルディーニ)

女性の側から恋を仕掛けるのは稀だが、それは非常に複雑で、心理的に豊かでしばしば隠微なエロティズムの要素を含んでいる。不倫の恋、近親相姦、同性愛などもある。イアソンとメディアの物語はそのまま『マクベス』に用いられている

連載小説の手法

話はたえず、ひとつの話から次の話へ移行するが、ひとつの話の終わりが、長詩の終わりと一致することはほとんどない。ウィルキソンはこれを、古くからの連載小説の手法であり、またひとつの連続した作品であることのしるしであると言っている。つまりひとつの現実であり一貫性のある世界の作品の印象を私たちに伝える。

物語がたがいに似ていることもあるが、おなじことを繰り返されることは、ぜったいない。自分の姿が水鏡にくりかえし映るのを眺めつづけなければならないことになった少年ナルキッススのために、おなじ音声をくりかえしつづけなければならないエーコの不運な恋(巻三)が、作品中もっとも哀しい物語であるのもけっして偶然ではない。オウィディウスはこの恋物語にみちあるふれた森を、駆けぬけていく。”Coëamus!” ”Coëamus!” ”Coëamus!”[いっしょになろう]と岩にこだまするエーコの声に追われて。(抜粋)

関連図書:
オウィディウス(著)『変身物語』(上)(下)、岩波書店(岩波文庫)、1981、1984年
シェークスピア(著)『マクベス』、岩波書店(岩波文庫)、19974年

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