『なぜ古典を読むのか』 イタノ・カルヴァーノ 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
オウィディウスと普遍的つながり(前半)
今日のところは、「オウィディウスと普遍的つながり」である。ここでは、オウィディウスの『変身譚』(変身物語)が取り上げられている。岩波文庫の紹介文には、この物語には、「エコーとナルキッソス」など変身を主要モチーフとする物語が二百余収録されているとある。
「オウィディウスと普遍的つながり」は”前半“と”後半“に分けてまとめるとする。それでは読み始めよう。
変身譚のテーマ・「神と人間の接触」
オウィディウスは、『変身譚』の冒頭で我々を天上の神々の世界に迎え入れる。そして、天上の世界をローマそっくりに表現することにより、神々を私たちの近くに引き寄せている。しかし、それは、神々の権威を軽んじているわけではない。
そしてカルヴァーノは、この神々と人間との接触が『変身譚』のテーマのひとつだと言っている。
私たちは、たえまなく特性や大きさが変化し、さまざまな形態がびっしりと空間を満たす宇宙に招じ入れられるのだが、そこでの時間の流れには、つぎつぎに生まれる物語、そして物語のテーマがひしめいている。地上に存在するもののかたちや話のすじは天上のもののかたちと話のすじをなぞっていて、たがいに相手を包みこんで二重の螺旋形をかたちづくっている。神々と人間たちの接触は --- 神々と縁つづきになり、彼らの衝動的でおしつけがましい恋の対象になったり --- 「変身譚」を支配するテーマのひとつだ。(抜粋)
しかし、それは人間にとどまらず、動物界、植物界、鉱物界、そして大空にも共通な実質を通して、肉体的、心理的、倫理的な性質の集合として、私たちが人間らしいと呼んでいるものを含んでいる。
パエトンの物語・精密な細部と矛盾に満ちた天空
『変身譚』が詩であることの根本は、たがいに異なるふたつの世界の境界線がぼやけていることにある。(抜粋)
その例として、太陽の車を自分で駆ろうとした無鉄砲な「パエトンの物語」が取り上げられる。この話で天は絶対空間として、幾何学的な抽象として、また人間の冒険の舞台として提示されるが、詳細な細部のため、片時も話のすじを見失わない感情移入の状態となる。跳ね上がる車の動き、馭者の感情、天界の地図をはじめ自分たちの理想とすることがら、それらが視覚的に見事に表わされている。もちろん精密さは表面上のことで、全体的にみると矛盾も多い、しかしこれはオウィディウスだけでなく古代の詩人の多くにみうけられる。
パエトンの天をかける旅の後、燃え盛る大地と仰臥したアザラシが漂流する、煮えたぎる海という同大な描写がつづく、これは巻一の大洪水と対応する有名なオウィディウスの破滅的場面である。そして、太陽の車がユピテルの雷によって粉砕され、破片が四方に散乱し、物語はクライマックスを迎える。
神・人間・自然の均衡と神話を語る精神
オウィディウスにおいて、神話は神・人間・自然が衝突し均衡を見出す緊張の空間である。そしてそのすべてを決めているのは、神話を語る精神である。神々が人間を諭すとき、道徳の模範として神話を用いるが、人間が神々と論争するとき、ピエリデスやアラクネの場合のように、神々を挑発するときに同じ神話を人間が使うときもある。
アラクネとミネルヴァの織物競争と神話のミニチュア
神々に戦いを挑むのは、不敬であり、冒瀆だということに物語ではなっている。機織の技でミネルヴァに競争しようと宣言したアラクネは女神を侮った罪でクモに変えられた。
パラス・ミネルヴァは、オリンポスの神々を描いてから、オリーヴの葉枝で囲んだ四隅に、神々に戦いをいどんだ者に下された四つの懲罰の場面を織って見せた。それにたいしてアラクネは、ユピテルとネブトゥスとポエブス(アポロン)とが、よこしまな謀略をもちいて誘惑した物語を織りあげた。
このミネルヴァとアラクネの物語は、思想からいうと「聖なるもの畏怖」と「不敬と論理の相対性」の二つの相反する思想に読むことができる。しかし、どちらかの読み方が正しいと考えることは、間違いである。
『変身譚』の作者オウィディウスは、一方的な意向に与することはせず、有名無名のいずれの神であっても、これを仲間はずれにすることもしないで、生あるものすべての多様性に与することに成功している。(抜粋)
すべての神に扉を開けるオウィディウス
オウィディウスは、バックス=ディオニュソスのような疎まれる神のことも『変身譚』でたっぷりと語っている。この神をまつる放埓な祭りを、ミネルヴァの崇拝者、ミニュアスの娘たちは、拒む。この少女たちにとってすべては女神見ミネルヴァにふさわしいものでなければならない。
このミニュアスの娘たちも自分たちの善得を過信する過ちを犯す。あまりにもミネルヴァ崇拝にかたよったことで恐ろしい罰を受ける。放埓な神、バックスが彼女たちをコウモリに変えてしまうのだった。
自分もコウモリなどに変えられては大変だから、オウィディウスは、過去現在未来の、また、土着・外国の出を問うことなく、あらゆる神々に彼の作品の扉を開けておくことを忘れない。・・・・(中略)・・・・だが、いちばん近いところにいる、行政の権力者でもある神、アウグストゥス帝を納得させることは彼にもできなくて、この皇帝は詩人を永久的に追放者、遠い国の住人、に変身させてしまう。すべてを、自分と共存するものとして、つなげておきたかった彼を。(抜粋)
ここの最後の部分、オウィディウスがアウグストゥス帝によって、僻地に追放されたことは、ウィキペディアによると史実だそうだ。世の中、難しいもんですねぇ~。(つくジー)
関連図書:オウィディウス(著)『変身物語』(上)(下)、岩波書店(岩波文庫)、1981、1984年
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