クセノポン 『アナバシス』
イタノ・カルヴァーノ 『なぜ古典を読むのか』より

Reading Journal 2nd

『なぜ古典を読むのか』 イタノ・カルヴァーノ 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

クセノポン 『アナバシス』

今日のところは、「クセノポン 『アナバシス』」である。『アナバス』は、戦場に取り残された一万人あまりのギリシアの傭兵の帰還の物語である。イタノ・カルヴァーノは、この物語を概説し、その文体やアルプス撤退の物語との類似、さらにはクセノポンの“現代的”倫理観について語っている。それでは読み始めよう。


いまクセノポンを読んで受ける印象は、まずこの本が、ときに映画やヴィデオで見るのとあまり変わらない、古代の戦争のドキュメンタリーだということだ。(抜粋)

本章は、クセノポンが記した古代の戦争の記録『アナバス』の紹介である。

『アナバス』の物語とクセノポンの文体

ここで、カルヴァーノは、クセノポンの文章を引用しつつその文章の流れを紹介している。クセノポンの文章は、目に見えるような細部や動作がつぎからつぎへと描写されるのが特徴であり、そこからまたエピソードに迅速に移っていく。

『アナバス』は、ペルシアの王子小キュロスのいい加減な口車に乗せられ雇われたギリシアの傭兵たちが、クサクサの戦いで敗れ、故郷を遠く離れたまま、敵意に満ちた住民の間を撤退する話である。その過程で起こり数々の困難をクセノポンの知恵のおかげで乗り越えていく。

この一万人の武装した兵士たちは、同時には腹をすかせたイナゴの大群でもあった。どこについても略奪と破壊を行い、そればかりか行軍のしんがりにはぞろぞろと女を従えていた。

クセノポンは叙事詩にあるような英雄を立てた描き方に手を染めたり、自分たちが置かれた状況の、恐怖と奇怪さがないまぜになった様相を --- ごく稀にそういうこともあるが --- 愉快とするような男ではなかった。『アナバス』は、だから、距離、地理的な目じるしになるもの、動植物の資源などを詳記した、一将校の技術的な回想記であり、また、外交上の問題、人員の配置、戦略上の問題集であると同時に、それぞれの問題への解答集なのだ。(抜粋)

クセノポンの文章は正確で乾いている。そのため問題の底にある、おおやけに表現され、あるいは示唆されているだけの批判は、文章のなかから読み取らなければならない。

『アナバス』の物語とイタリアのアルプス兵の撤退の物語

この『アナバス』にもパトスもある。それは帰還へのあせり、外国での心細さ、ちりぢりにならないようにする努力である。一緒に固まっていれば祖国は彼らとともにある。

『アナバス』の自分たちのためでない戦争での敗退、帰路に就いた軍隊の遭遇する不和、争いごと、通路を確保するために起こる戦争、これらは、そう遠くない昔に読んだいくつかの本に近づけてくれる。

それは、イタリアのアルプス兵たちが、ロシアから撤退した時の回想記、「方言で書かれた小さなアナバス」と呼ばれたマリオ・リゴーニ・ステルン『雪の中の軍曹』ヌート・レヴェッリ『貧乏人の戦争』クリストフォロー・M・ネグリ『長い銃』などである。

これらのイタリアの小説と『アナバス』の共通点は、語り手(主人公)が優秀な兵士であり、専門家として責任のある発言をすることである。彼らは、空さわぎに終わった野心が総崩れになると、実際的で仲間意識のつよい美徳がもどり、それを基本に、ひとりひとりが自分にとってだけでなく、他人にとっても有益な自覚をもつ。

しかし、アナロジーはここまでである。アルプス兵の回想は、貧しく良識があるはずのイタリアと、全体戦争の狂気と虐殺が対立しているのに対し、『アナバス』では、イナゴの大群と化した傭兵軍とこれを現実の状況に適合させようとするクセノポンとその仲間の哲学的、市民的、軍隊的美徳が対立している。

その結果、この場合、対立はイタリアの撤退におけるような苦痛にみちた悲劇性を生みはしなかった。ふたつの要素を両立させることに、クセノポンは成功したと確信しているようにみえる。人間には、たとえイナゴになりさがっても、イナゴにはイナゴなりに、規律と尊厳を課すことができる。一言で言えば、それは「様式スタイル」なのだ。(抜粋)

クセノポンと現代の倫理感

このようなクセノポンには、完璧な技術的効率をめざす現代の倫理観がある、と著者や指摘している。

普遍的倫理の教えるところに従ってみずからの行為の価値を判断するのではなく、「状況に対処でき」、「事をおこなうにあたって、これをうまくまとめる」というのが、彼らのやり方だ。(抜粋)

著者は、このような倫理を現代的と呼び、それは多くのアメリカ映画やヘミングウェイにもあるとしている。

倫理的な分野でのクセノポンのメリットは、ごまかさないことであり、自分の役割の値打ちを理想化しないことである。クセノポンたちは、野蛮人を嫌悪することはあっても、「植民地主義」的な偽善とは、無関係だった。略奪者の群れが自分たちで、野蛮人の彼らの方が正しいことも認識していた。

アナトリアの山と平原を、生理的欲求に駆られて移動する、この飢えて暴力的な人間たちに、様式、あるいは規範を守らせようとして、彼は尊厳を保ち得たのである。(抜粋)

そして著者は、この章を次のように言って終えている。

山間の谷や川の浅瀬を、たえまない伏兵の攻撃や略奪の合間を縫って、もはやどこまで被害者なのか、どこまで抑圧者なのかの区別もつかないままに、冷徹に殺戮をおこないながらも、無関心とそのときそのときの偶然に由来する比類ない敵意と偶然に包囲されてのろのろと進むギリシア軍は、もしかしたら私たち[イタリア国民]だけが理解できるのかもしれない。象徴的な激しい苦悩について考えさせられる。(抜粋)

関連図書:
クセノポン(著)『アナバシス』、岩波書店(岩波文庫)、1993年
マリオ・リゴーニ・ステルン(著)『雪の中の軍曹』、草思社、1994年

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