『なぜ古典を読むのか』 イタノ・カルヴァーノ 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
オデュッセイアのなかのオデュッセイア(後半)
今日のところは、「オデュッセイアのオデュッセイア」“後半”である。“前半”では、『オデッセイア』の重厚性やその帰還と忘却について語られた。今日のところ”後半“は、おとぎ話との関連、そしてオデュッセイアの新奇性についてである。それでは読み始めよう。
おとぎ話の構造
おとぎ話を調べると、二つのタイプの社会改革を提起していることが分かる
- 上(王子)⇒下(乞食)⇒上(王子)のタイプ
- 下(羊飼)⇒上(王子)のタイプ
ここで、②のタイプは社会の役割と「個人の運命の逆転という民衆の要求」を直截的に表している。そして①のタイプは、「以前あった仮の秩序の回復」という形で②と同じ民衆の欲求を柔らかに表している。
ここで著者は、②のような羊飼いの幸運は単に民衆の奇跡願望に過ぎないとしている。それに対して①のタイプは、王子の不幸は〈踏みにじられた権利〉の概念につながり、正しい秩序は回復されなければならないという思想を表している。
真のアイデンティティの回復
では、「回復されたアイデンティティは本当に以前と同じだろうか?」
イケネーにたどり着いたオデュッセウスは、誰も見分けられなかったし、オデュッセウスもそこが故国であるがわからなかった。
オデュッセイアの後半にはアイデンティティ・クライシスの話でひしめいている。(抜粋)
登場人物たちや場所が同じことを保証するのは物語だけあるが、その物語も変質している。オデュッセイアには別のオデュッセウスが話を聞かせる物語があり、さらに新しいオデュッセイアの向こうにさらに別のオデュッセイアが存在する。
バイアケス人の王に語る物語
オデュッセウスが騙し上手だということは、オデュッセイアが存在する以前に、すでに知れ渡っていた。(抜粋)
- トロイアの馬の話には二つのヴァージョンがある。
- バイアケス人の王にオデュッセウスが語る物語も偽りかもしれない
このバイアケス人の王に語る物語は、他の部分とは対照的である。そして、
ここでも、ペネロペーの機織りのとか、弓の競いあいを通して得られる身元の証明とかいった、民間のおとぎ話に共通のモチーフに出会う。(抜粋)
ここでのテーマは、リアリズムや本当らしさなどの現代の基準により接近している。しかし、大切なのは、同じ冒険譚が叙事詩の他の部分でも想起されていることである。
このような幻想的なタイプのヴァージョンが存在する理由は、幾つかの異なった起源の伝承が綯い合わせたものを吟遊詩人たちが伝え、ホメロスのオデュッセイアに合流したとう説を信じるしかない。
オデュッセウスが一人称で語る物語の部分だけが、この詩の、より古代にさかのぼる層を示しているという説に到達する。(抜粋)
古い層の新しさ
アルフレッド・ヒューベックによると、この「より古い層」には、実際はその正反対で、オデュッセウスの新しさが表れている。
オデュッセウスは、イーリアスを含めてオデュッセイア以前にもすでに叙事詩の英雄であった。そして、叙事詩の英雄は、怪物や魔術を土台とした冒険譚を持っていないものである。
しかし、オデュッセイアの作者は、オデュッセウスを十年間も家に帰らせなかった。そのため、人知におよぶ世界からで出て、異郷、人間の外の世界、ある種の彼岸に行くことが要求された。そのため作者は、叙事詩の領域から逸脱するために、イアソンとアルゴナウタイのような伝承に依存することにした。
それでは、オデュッセイアの〈新しさ〉とは、いったいなにか。それはオデュッセウスのような叙事詩の英雄を「魔女や巨人、怪物や人喰いたちと戦わせた」ことであり、そういう状況はもっと〈古代〉サガにあるタイプで、「古代民話の世界、いや原始的な魔法やシャーマニズムの概念に根源を辿らなければならない」。(抜粋)
これがオデュッセイアの現代的なところで、この物語がよりわれわれに近いの、今日的なものになる理由である。
オデュッセウスは、叙事詩の英雄の貴族的、軍事的な徳の典型であるとともに、より困難な体験(疲労、悲しみ、孤独)に耐える人間でもある。
「彼もまた聴衆であり読者であり、夢の神話的世界に私たちをみちびきいれながら、この夢の世界は同時に、私たちが日々送っている、そのなかでは欲求と不安、恐怖と悲痛が支配し、人間が逃げ道を閉ざされたまま生かされている、現実の世界をそのまま映す表象なのである。」(抜粋)
異なった帰路をたどるオデュッセイアの仮説
ステファニー・ウェストは、このヒューベックの説にすべて賛同はしないものの、その説を有効にする仮説を立てている。
それは、ホメロス以前に、現在のヴァージョンとは異なったオデュッセイアが存在したという、すなわち、異なった帰路をたどる話が存在したという仮説だ。(抜粋)
そしてホメロスは、その旅行譚を貧弱なものと思い、幻想に満ちた冒険譚と差し替えた。
著者は最後にこのように言ってこの節を閉じている。
もしかするとオデュッセウス=ホメロスにとって、騙しと真実の区別などはじめから存在しなくて、彼はひとつの体験を、あるときはそれを生きた人間の言語で、あるときは神話の言語で話したのではないか。ちょうど、今日、私たちにとって、短くても長くても、すべての旅がみなオデュッセイアでありつづけるように。(抜粋)
関連図書:ホメロス(著)『オデュッセイア』(上)(下)、岩波書店(岩波文庫)、1994年
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