『なぜ古典を読むのか』 イタノ・カルヴァーノ 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
オデュッセイアのなかのオデュッセイア(前半)
今日のところは、「オデュッセイアのオデュッセイア」である。『オデッセイア』は『イーリアス』と並び西洋文学の源泉とされる古典である。カルヴァーノはその重層性を、おとぎ話との類似性を、そしてその革新性を語っている。
この「オデュッセイアのなかのオデュッセイア」は、“前半”と“後半”に分けてまとめることにする。それでは読み始めよう。
「テレマコスの旅物語」とオデュッセイアの重層性
オデュッセイアのなかにはいくつのオデュッセイアがあるか。(抜粋)
著者は、この言葉から始めている。そして詩の冒頭の「テレマコスの旅の物語」を、「まだ現実に存在していない物語」「やがてオデュッセイアになるはずの物語を探す話」であるとしている。
ここでは、「テレマコスの旅の物語」の中で、どのようにオデュッセイアが重なっているかを見る。
イケネーの王宮に、他の英雄たちが国に帰り着いているのに、自分たちの王だけが帰りついていない。そこでテレマコスがこの物語をもとめて、トロイ戦争の古強者を尋ねてあるくことになる。
物語さえ見つかれば、たとえ結末がよくてもわるくても、イケネーは、長年つづいた時間も法もないあの無形の状態から脱出できる。(抜粋)
テレマコスは、ネストールやメネラオスなどを訪ねるが、どれも探している話ではない。そこでメネラオスは、アザラシに変身してプロテウスを捕まえ、無理やり白状させた。
プロテウスはオデッセウスの話を語り始めるが、少し語っただけで口を閉ざす。そしてホメロスが登場し物語を語りつづける。
(ここよりホメロスが語るオデッセウスの話となる。)
オデュッセウスがバイアケス人の王宮に着いたとき、盲目の詩人がオデュッセウスの物語を語るのを聴き、涙を流し、その後自分自身が語り始める。
(ここよりオデュッセウスの語るオデュッセウスの話)
このオデュッセウスが語るオデュッセウスの話の中で、オデュッセウスはテイレシアスに話をゆだねることを考え、死者の国ハディスに出かけていくと、テイレシアスが、オデュッセウスの話を語っている。オデュッセウスがシレーネーと出会うのはその後で、彼女たちの歌もオデュッセウスである。
これはなるほど重層的ですね。「オデュッセイア」はホメロスが語っているんだと思うが、その話の中にホメロス自身が出てきて語り始め、その話の中でオデュッセウス自身が出てきて語り始め、その話をテイレシアスにゆだねて語らせ、シネーレたちに出会ったら彼女たちの歌もオデュッセイアだった・・・ようで。(つくジー)
「帰還」と忘却の危険
この帰還=物語はすでに過去に属することであり、まだ終わりに至っていないもの、それ自身が、現実になる以前に存在する物語ということができる。(抜粋)
この「テレマコスの旅の物語」では、「帰還について考える」「帰還を語る」という表現が多い。帰還は、推測され、考慮され、のちに回想される。
しかし、帰還は、実現される以前に忘れられる危険を孕んでいる。
この記憶の喪失は、オデュッセウスがくぐり抜けてきた困難などの経験を無にする。それはとても重大な危機となる。オデュッセウスは、「露と巣を食べる人たちの誘惑」により「キルケ―の媚薬」により「シレーネーの歌」により、忘却の危機を乗り越えた。
では、何を忘れてはならないのか
忘れてはならないのは、家であり、航路であり、旅の目的なのだ。この場合、ホメロスは「帰還を忘れる」という表現を用いる。
オデュッセウスは、じぶんがたとらなけらばならない道すじ、それは彼の運命のかたちなのだが、を忘れてはならない。ということは、とりもなおわず、オデュッセイアを忘れてはならないということになる。(抜粋)
忘却についての論争
著者は、「未来を忘れる」というテーマについて記事に感想を述べた。
オデュッセウスが、ロストの実、キルケ―の媚薬、シレーネーの歌、に打ち勝って手に入れたものは、過去と未来だけでなく、「記憶」もある。
記憶は、 --- 個人にとっても、集団にとっても、文明にとっても --- 過去の刻印と未来の計画を同時に手に入れ、自分がなにを成し遂げたかったかを忘れないで実行に移すことができるときだけ、存在することをやめないでなにものかになる、あるいは、なにつづけることをやめずに存在が可能であるときだけ、真に重要性をもつものだ(抜粋)
この記事に対して詩人のエドアルド・サングイネーティが反論の記事を書いた。
「オデュッセウスの旅が、これから行く旅ではなく、帰りの旅だから忘れてはならないと君はいう。では、ちょっとたずねたいのだが、彼にとって、いったい未来とはなにを指すのか、オデュッセウスが探し求めている未来なるものは、じつは、彼の過去ではないか。オデュッセウスが《後戻り》への誘惑を払いのけることができたのは、《再構築》にすべてをかけていたからではないか。
ある日、ひとを困らせるためだけに、ほんもののオデュッセウスが、あの偉大なオデュッセウスがが、《最後の旅》のオデュッセウスになったとしたらどうなるか。そのオデュッセウスにとっての未来は過去なんかではなくて、ひとつの《予言》の《実現》、真のユートピアの現実化になるはずだ。ホメロスのオデュッセウスは、しかし、自分の過去をまるで現在であるかのように取り戻そうとして、旅に出ている。彼の叡智は《反復》にこそある。そのことは、いまも彼の足に残っている、永遠の彼のしるしでありつづけるあの有名な《傷あと》に認められるのだ。」(抜粋)
これに対して著者は、さらに
「神話の言語においては、おとぎ話や大衆小説の言語とおなじように、正義をもたらし、悪をこらしめ、哀れむべき状況から救済を目標とするあらゆる企ては、それ以前に存在した理想的な秩序の回復として提示される。達成すべき未来への欲求の正統性は、失われた過去の記憶によって保障されるのだ」(抜粋)
と答えた。
この章は全体的に難しいが・・・・・この論争の部分は、まるで分らなかった。なので、二人の主張をそのまま引用しました。(つくジー)
関連図書:
ホメロス(著)『オデュッセイア』(上)(下)、岩波書店(岩波文庫)、1994年
ホメロス(著)『イーリアス』(上)(下)、岩波書店(岩波文庫)、1992年
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