『「モディ化」するインド』湊 一樹 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第5章 新型コロナ対策はなぜ失敗したのか(その3)
今日のところは、第5章「新型コロナ対策はなぜ失敗したのか」の“その3”である。“その1” と“その2”は、インドの新型コロナ感染症の第一波への対応とそれによる深刻な打撃についてであった。“その3”では新型コロナ感染症の第二波の襲来とその影響、そして、最後にこの感染症へのインド政府の対応から浮き彫りになったモディ政権の本質についてである。それでは読み始めよう。
人災としての第二波
感染拡大の第一波が収束した二〇二一年で「ダボス会議」の代わりとなるオンライン会議でモディ首相は、新型コロナウィルスを効果的に封じ込めで人類を大惨事から救ったと大見えを切り、国産の新型コロナワクチンを各国に提供してインドが世界に貢献していると宣伝をした。
しかし、その後数カ月後により感染力と病原性を持つデルタ株の出現で状況は暗転した。この爆発的な感染拡大により各地の医療体制は崩壊し、火葬場はフル稼働しても火葬が追い付かず、ガンジス川にはおびただしい遺体が流れ着き、イスラーム教の集団墓地でも土葬用スペースが確保できなくなった。このインドの被害はリアルタイムで世界に配信されたが、インド政府と与党は、これはインドのイメージを不当に貶めるものとして、海外メディアを批判した。
インド政府はこの第二波では、厳しい全土封鎖を実施することはなかった。むしろ州政府にロックダウンを回避するように依頼する。しかし州政府は次々とロックダウンを実施し、経済活動は一時的に止まる。これに対してモディ政権は経済対策を発表したが、それは遅くそして内容も不十分であった。
ただし、モディ政権が犯した最大の誤りは、経済対策に関することではない。むしろ、第二波の脅威について事前に発せられていたのに警告を無視し続け、感染拡大の明らかな兆候が現れても、積極的に対処しようとしなかったことである。(抜粋)
この第二波の感染拡大は、第一波が収束した時のモディ政権・与党が見せた自身が、単なる過信であったことを白日のもとにさらした。そして国産ワクチンの集団接種は感染拡大に追い付かず、インド国内での在庫不足のため、輸出は停止された。
浮き彫りになる歪んだ統治
著者は、この新型コロナウィルス感染症でのインドの甚大な被害は、モディ政権による「人災」と断じ、そしてさらに、これらの対応にモディ政権の統治の本質的特徴が現れていることが重要であるとしている。
貧困層に対する政策的無関心
まず、モディ政権の支配の本質の一つは「貧困層に対する政策的無関心」である。新型コロナウィルス感染症による全土封鎖により経済活動が停止し、大量の貧困層が困窮することになったが、インド政府は、そのような貧困層に十分な施策を講じなかった。
そしてそのような政府の姿勢の根幹には、現政権が依拠するヒンドゥー至上主義的な国家観・社会規範がある。ヒンドゥー至上主義の国家感・社会規範には、生存権・つまり貧困層を含むすべての国民の生存を保証するという発想が欠落している。モディ首相の貧困層の問題についての発言は、すべての国民が享受すべき権利(「生存権」)を人々の「善意」「同情」「慈悲」「思いやり」「施し」の問題にすり替えていることがわかる。そしてそのすり替えにより政府の不作為を正当化している。
個人支配型統治と専門知の軽視
モディ政権の支配の本質のもう一つは、「個人支配型統治と専門知の軽視」である。政府の新型コロナ対策は、幅広い分野の専門家から厳しい批判を浴びてきた。経済の分野においても、専門家のあいだで政府の経済対策への不満が表面化している。
政府の新型コロナ対策が幅広い分野の専門家から批判される背景には、首相個人が圧倒的な権力を握り、それを行使するための司令塔として首相府が中心的な役割を担うという、現政権の統治スタイルがある。つまり客観的な根拠にもとづく、政府にとって都合の悪い意見には耳を傾けることがなく、首相とその側近たちが不透明な形で現政権を決定しているために、モディ政権は専門知を著しく軽視する結果になっているのである。(抜粋)
二〇二二年にWHOによる新型コロナウィルスによる死者数の推定値について発表があった。それによると各国が発表している死者数の合計(五四〇万人)の二・七倍に相当する一五〇〇万人が実際には亡くなっていると推定されている。そして、インドについては政府発表(四八万人)の約一〇倍の四七四万人が亡くなっていると推定されている。
しかしインド政府はこの分析結果を頑として拒んでいる。著者は、これにも客観的な事実と向き合おうとしないモディ政権の姿勢が表れているとしている。
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