『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二章 「呉越同舟」 — 乱世の生きざま 3 戦国の群像(後半)
今日のところは、「第二章 呉越同舟」「3 戦国の群像」の”後半“である。ここでは、戦国期に活躍した「諸子百家」の起こりと、孟子・荀子・韓非子などの生涯について、そして、最後に燕の名将、楽毅について語られる。それでは読み始めよう。
「稷下の学士」と「諸子百家」
斉の威王は、人材招集のため斉の首都臨淄の稷門の外に学者を集めた。ここに住む学者たちは「稷下の学士」と呼ばれ、「諸子百家」と呼ばれる思想家たちの源流となる。
孟子と性善説
孔子の儒家思想の後継者と目される孟子もこの稷下に住んだことがある。孟子の思想の基本は、「王道論」と「性善説」である。孟子は各地を巡り、諸国の王に「慈愛に満ちた心をもって、民衆の生活を安定させる(「保民」)べきである」と説いて回った。しかし弱肉強食の世にあって彼の思想に受け入れる君主に出会えなかった。
彼の王道論を支えたのは「性善説」である。これは、すべての人間の本性は善なるものであり、誰もがもともと高貴な道徳性を持っているという考え方である。
孟子は、現実には志を果たせなかったが、次のような言葉を残している。
窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす。
「現実的に志を果たすことができない場合には自分の身だけをよくし、志を果たすことができた場合には自分の身ともに天下をよくする。」(抜粋)
この考え方は、中国において士大夫知識人の生き方の指針として受け継がれてゆく。
その他、孟子の母が教育の為に三回引っ越したという話「孟母三遷」や「五十歩百歩」の語源となった『孟子』の一節が紹介されている。
荀子の性悪説
孟子につぐ儒家思想の大家として荀子がいる。荀子も稷下の学士である。荀子は、孟子と反対に「性悪説」をとる。つまり人間の本来的性格を悪であるので、人為的な「礼(道徳習慣)」により、善に変えることが必要であるとしている。彼の次の言葉はそれを表わしている。
「人の性は悪なり。其の善なる者は偽なり」(抜粋)
ここでの「偽」は、「人為」の意である(偽を分解すれば「人為」となる)。偽りという意味ではない。
また、荀子は世襲制を否定し、有能な人物を積極的に登用する、賢人政治を実施すべきであると唱えた。
「逆鱗に触れる」法家韓非子
荀子の弟子に礼を制度化し「法」を基準にして、官僚制度の確立を説いた法家の韓非子がいた。春秋・戦国時代を終わらせた秦の始皇帝も韓非子の共鳴者であった。始皇帝は配下の策謀で韓非子を処刑したあと、大変残念がった。
韓非子の著書『韓非子』は、名言名句の宝庫で「逆鱗にふれる」などの出典である。
「先ず隗より始めよ」郭隗
斉の国の北にある燕の国で内乱があった。斉の湣王はこの機に乗じて燕に攻め込み、燕王の噲王を敗死させ、占領した。その後、斉軍が撤退した後、太子が即位した。これが燕の昭王である。
昭王は斉への復讐を願い国家基盤を強化するために、優秀な人材を集めようと思い、郭隗に相談した。
すると郭隗は「どうしてもりっぱな人物を招聘したいとお考えならば、先ず隗より始めよ(まず隗から始めてください)。そうすれば、私より賢明な者は千里の道も遠いと思わず駆けつけることでしょう」と答えました。(抜粋)
そして昭王が郭隗を先生として厚遇すると、各地から優秀な人材が集まってきた。
この故事により「先ずは隗より始めよ」という言葉は、「大きなことをするには、まず手近なことから始めよ」、さらに転じて「言い出した者からやり始めよ」という意味になった。
「忠臣は国を去るもその名を潔くせず」楽毅
このとき燕に集まった人々の中に、戦国時代きっての猛将楽毅がいた。楽毅は昭王の命令により斉を攻め斉軍を撃破して大勝利をおさめる。
しかし昭王が亡くなり息子の恵王が即位すると、恵王は楽毅を快く思わなかった。身の危険を感じた楽毅は、趙に投降し、趙は楽毅を厚遇する。
楽毅を失った燕は、斉との戦いに連戦連敗し、後悔した恵王は、楽毅に詫びて帰国を要請する。すると楽毅は恵王に手紙を書いて固辞した。
この手紙は『史記』の「楽毅列伝」に掲載されている。著者はこの手紙を、昭王に厚遇された感謝の念と恵王に疑念の目でみられた無縁さが複雑に入り混じった名文であると評している。そして次の一文を引用している。
「古の君子は交わり絶つも悪声を出さず、忠臣は国を去るもその名を潔くせず(いにしえの君子は友人と絶交しても悪口をいわず、忠臣は国を去っても自分の身の潔白を表明しない)」(抜粋)
コメント