『故事成句でたどる楽しい中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第四章 「春眠暁を覚えず」 — 大詩人のえがく世 1 唐・三百年の王朝(その3)
今日のところは「第四章 春眠暁を覚えず」「1 唐・三百年の王朝」の“その3”である。「初唐」(”その1”)「盛唐」(“その2”)と移りすぎた唐の繁栄も、「安史の乱」以降は活力が失われていった。今日のところ“その3”では、「中唐」「晩唐」をまとめることにする。それでは、読み始めよう。
「安史の乱」以降の唐の衰退(中唐)
「安史の乱」により唐は、活力を失い衰退する一方だった。その衰退を加速したのが、ひんぱんに皇帝が交替し宦官勢力が強くなったこと、地方軍政を担った節度使が軍閥化したこと、さらに貴族は官僚と科挙に合格した進士派官僚の争いである。
「邯鄲の夢」「南柯の夢」唐代伝奇小説(中唐)
このころ科挙は、制度的に未完成で、科挙合格を、目指している進士予備軍が官界の実力者にみずからの能力を示すべく、自分の書いた詩文を巻物にして贈る「行巻」が盛んになった。
このような背景から「唐代伝奇」小説がさかんに書かれるようになった。
この唐代伝奇より「人の世の栄枯盛衰は夢のようにはかないものだ」という意味の「邯鄲の夢(枕中記)」や「南柯のい夢(南柯太守伝)」どの成句が生れた。
「推敲」中唐時代の詩(中唐)
中唐においても文学ジャンルの筆頭は詩である。韓愈、賈島、白居易、元稹、李賀である。この中でリーダー格とされるのが韓愈と白居易である。
ここで、賈島は韓愈にその才能を認められた人であった。あるとき賈島が、五言律詩を作ったとき、「僧に敲く」とすべきか、「僧に推す」にすべきか悩むながら歩いていたら、韓愈の行列にぶつかってしまった。そして話を聞いた韓愈は、即座に「『敲く』のほうがいい」と言った。
この故事がもとになり、字句を練り上げることを「推敲」と言うようになった。
「一将 功成りて 万骨枯る」黄巣の乱と曹松の詩(晩唐)
晩唐になると牛僧孺をリーダーとする進士出身官僚グループと李徳裕を中心とした貴族派完了グループの間で牛・李の党争と呼ばれる派閥抗争が激化する。そして、そこに宦官を巻き込み主導権争うが泥沼化する。そして、地方では中央の統制を無視して軍閥の割拠状態となる。
このような状況で黄巣と王仙芝をリーダーとする「黄巣の乱」が勃発する。黄巣軍は洛陽につづき首都長安も占拠してしまう。黄巣は、唐に寝返った配下の武将朱全忠により長安を追われ、ようやく黄巣の乱は終結する。
この乱の様子を詩人の曹松は、
君に憑む 話す莫かれ 封侯の事
一将 功成りて 万骨枯る
(どうか諸侯に封ぜられることなど言わないでほしい。一人の将軍が手柄を立てるがけに、無数の兵士が戦場で屍をさらしているのだから)(抜粋)
と詠んだ。
これより、「一将 功成りて 万骨枯る」は、功績が上位の者のみに帰せられ、その下で働いた者の努力が顧みられないことを嘆く成句となった。
黄巣の乱で死に体となった唐王朝は、朱全忠が、唐王朝を滅ぼし即位して後梁を建国したことで滅亡した。以後短い周期で王朝の興亡を繰り返す「五代十国」の乱世となる。
「巻土重来」晩唐時代の詩(晩唐)
晩唐時代の代表的詩人は李商隠と杜牧である。両者は、技巧を凝らした手法でデカダンスの気配濃厚な詞的世界をつくりあげている。
杜牧は歴史に題材をとった詩編が多く、彼の詩の一節「巻土重来、未だ知る可からず(項羽がもう一度、土煙をあげて戦ったなら、勝敗の行方[ゆくえ]はわからなかっただろう)」から「巻土重来」は、一度敗れた者が再び盛り返すという意味で成句となった。
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