なぜ聞けなくなるのか(前半)
東畑開人 『聞く技術 聞いてもらう技術』 より

Reading Journal 2nd

『聞く技術 聞いてもらう技術』 東畑開人 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第1章 なぜ聞けなくなるのか(前半)

まえがき」「聞く技術 小手先編(前半)(後半)」につづき、ここから第一章「なぜ聞けなくなるのか」が始まる。「まえがき」にあるように本書は、著者の朝日新聞の連載「社会季評」がベースとなっている。そして、各章の初めに「社会季評」に記事が引用され、そしてそれに続き「社会季評」の記事の解説という構成となっている。
そこで、ここでは「社会季評」の記事へのリンク[朝日新聞デジタル]の後に内容をまとめ、そして解説文のまとめと進もうと思った。それでは、読み始めよう。

社会季評「届かなかった言葉」:内容のまとめ

まず初めに著者が朝日新聞に連載した社会季評の記事「届かなかった言葉」の全文が引用されている。
最初にこの社会季評の記事をまとめる。

社会季評「届かなかった言葉」は、コロナ禍での菅首相の言葉がなぜ届かなかったのか、という著者の疑問から始まる。反対にドイツのメルケル首相のテレビ演説は時代の記憶に刻まれる言葉となった。

なぜ「聞かないのか?」。著者は、話を聞いてもらうにはまず聞かなければならない、「聞かずに語った言葉は聞かれない」からだと言っている。

しかしこの「聞く」が難しい。人はお互いの関係がこじれた緊急事態では、言葉がシビアになり、感情的になる。

それでも、関係を続けたいと望むならば、あなたは「聞く」を再起動しなければならない。自分の失敗を認め、何を聞いていけなかったかを尋ね、シビアな言葉に身をさらす必要がある。(抜粋)

そのように、「聞く」は関係が円滑な時ではなく、不全に陥ったときに必要とされる、タフな営みである。そしてその時、人は孤独である。

東欧で育ったメルケル首相は、自身がかつて移動を制限されていた痛みに言及しながら、人々が感じているであろう痛みを言葉にしていた。シビアな痛みから生まれた言葉だけが、孤独の向こうにまでたどり着ける。(抜粋)

著者は、菅首相の言葉が届かなかった理由を「首相に足りなかったのは孤独ではなかったか」と言っている。

そして、著者はこの社会季評をコロナ禍の今が緊急事態ならば、シビアな「聞く」を再起動し、谷間の向こうからの声を聞き、遠くの耳にまで言葉を届ける必要がある、と言って終えている。


ここの社会季評だけども、「聞いてもらう」ためには「聞くこと」が大切である。しかし、関係が拗れた緊急事態では、「聞くこと」が難しくなる。それでも、関係を続けるためには「聞く」を再起動する必要がある。ただその場合、シビアな言葉に受け止めるような忍耐力が必要になる。
ここまでは、まあわかるのだが、そのシビアな言葉に身をさらしている状態を、著者は「孤独」と定義している。それはどうなんだろう?「首相に足りなかったのは、孤独ではなかったか」と言っているが、すご~く孤独だったような気がするが?どうだろう?
っが、目次を見ると第二章の表題が「孤立から孤独へ」となっていて、まさにその疑問について書かれているのだろうかな?とも思った。(つくジー)


聞くということ

ここから、社会季評の評論を受けた著者の解説となる。

著者は、この評論を書く作業を通して、社会にもっとも欠けているのは「聞く」であると切実に思った。この「聞く」が問題になるのは、伝えたいことがあるのに聞いてもらえないときである。どんなにロジックを説明しても明確なエビデンスを示しても相手にわかってもらえない。それどころか言葉を尽くせば尽くすほど、相手は言葉で殴られている感じがしてしまう。

そのとき、問題なのは言葉ではありません。(抜粋)

こういう場合は、二人の間に不信感が飛び交い、関係がこじれているから、何を言っても聞いてもらえないのである。このようなことは日々の臨床でも起こり、その風景が菅首相の言葉の届かなさに重なった。

ここで問題になるのは、なぜ「聞いてもらえないか」であるが、その問題を考える前に、著者は本来の「聞く」はそれほど難しくなく「ハードルが低い」と言っている。われわれは、普段「聞く」をそれなりにこなして生きている。聞くがうまくいっている時は、がんばって聞いて、ようやく成功しているのではない。

それは呼吸と同じように、自然な生活の一部です。人間は人間と暮らす動物なのですから。(抜粋)

ウィニコットの「対象としての母親」と「環境としての母親」

この「聞く」の理解に、精神分析学者・ウィニコットの「対象としての母親」「環境としての母親」というアイディアが役に立つ。

ウィニコットは、診察室での子どもと母親のやりとり(=インタラクション)を観察して、「対象としての母親」と「環境としての母親」というアイディアにたどり着いた。

  • 「対象としての母親」・・・あなたが今、心に思い浮かべている母親
  • 「環境としての母親」・・・あなたに気づかれず、意識されない母親

この「環境としての母親」は、普段の生活で当たり前の事(洗濯したり、ご飯を作ったり)をしている母親である。

「環境としての母親」は普段は気づかれてない。失敗したときにだけ、気づかれる。そういうときに、「環境としての母親」は「対象としての母親」として姿を現します。
(抜粋)

つまり、母親は、失敗したとき(朝シャツが乾いていないとか、ご飯のスイッチを入れ忘れたとか)だけ(対象としての)母親として意識される。

ここで、ウィニコットは、よい子育ては「ほどよい母親(good enough mother)によってなされると言っている。ポイントは、perfectでなくgoodでもなくgood enoughであるところ

Perfectな母親は「環境としての母親」であり、彼女は失敗しない。その場合、子どもは母親がお世話をしてくれていることに気づかない。
子どもが大人になれるのは「環境として母親」が時々失敗し、「対象としての母親」を意識するからである。

反対に失敗ばかりしている母親では、子どもが最悪死んでしまう。そのためgood enoughという「ほどよい」母親が良いのである。

「環境としての母親」と「対象としての母親」を行ったり来たりするのが大事です。その過程で子どもはだんだんと「ああ、お母さんにも限界があるんだ」と気づき、母親への感謝が生れて、大人になっていきます。(抜粋)

この「環境としての母親」は、「聞く」ということとよく似ている。(後半へ)

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