民主主義とは — 立憲主義と民主主義(後半)
長谷部 恭男 『憲法とは何か』より

Reading Journal 2nd

『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第3章 立憲主義と民主主義(前半)

今日のところは、「第3章 立憲主義と民主主義」の“後半”である。“前半”では、「立憲主義」というものを、もう一度丁寧におさらいした。今日のところ”後半“では、今度は「民主主義(democracy)」を取り扱う。古くはネガティブなイメージであった「デモクラシー」がいかにして今日のようなポジティブなものになったのかを、時代を追って考察している。さらに、この民主主義にどうして憲法が必要かという問いに対して、プレコミットメントという考え方による説明が記される。それでは読み始めよう。

民主主義の原義とはじまり

民主主義もしくは民主政の原語であるデモクラシー (democracy)」は、ギリシャ語の「多数者の支配」という言葉に由来する。そして、多数者は「貧困で知識に乏しい大衆」を意味し、彼らによる支配は、否定的に評価されるのが通例であった。

このような状態は十九世紀末にいたるまでヨーロッパでは、僅かな例外を除いて、続いていた。

その例外にフランス革命期のロベスピエールおよびバブーフ一派をあげることができる

二十世紀初頭に著され、その後フランス憲法学の通説の基礎を築いたカレ・ドゥ・マルベールの『一般国学への寄与』 は、フランス憲法史では、人民が直接、政治参加する「人民主義」体制は、山岳派の支配してたフランス革命期の一時期のみ見られる変則であり、通則は、選良が自ら選挙した人民の意図に縛られることなく公益を審議し、その実現を目指す「代表制(régime représentatif)」であったことを指摘している。(抜粋)

二〇世紀初頭に大衆の政治参加が進行した(ココ参照)が、それは政治思想からではなく戦略上の必要性からだった。


ここの引用で、カレ・ドゥ・マルベールは、「・・・・通則は、選良が自ら選挙した人民の意図に縛られることなく公益を審議し・・・・」と言っているのがが、この「縛られることなく」という部分は、ヤン=ヴェルナー・ミュラーの『ポピュリズムとは何か』に出てきた「自由委任」ココを参照)ということであるのだと思う!そして、ポピュリストは、人民から「命令委任」されていると主張すると書いてあった(実際には、人民が命令するのではなく、自分たちの意見を人民の意見と言っているだけ)。

ちなみに、ヤン=ヴェルナー・ミュラーも「代表の役割ついての解釈が記されている民主主義的な憲法が、命令委任でなく、自由委任を選択しているのは偶然ではないのである」とも言っていて、まぁ政治学的には常識ってことなんですねキット。そういうことをキチンと最初に言ったのが・・・もしかして?カレ・ドゥ・マルベールさんなのかも?(つくジー)

議会制民主主義の思想の変遷

ここで議会制のあり方について幾人かの人の主張が紹介されている。

フランソワ・ギソーの議会制

まず、フランス七月王政期のフランソワ・ギゾーは、「啓蒙された世論を背景としつつ、公開の審議を通じて、真の公益を発見し、その実現を目指す」という理念型が描かれている。このような議会制は、議員は各自の名声や財力によりその地位を得ており、議会外の利害に拘束されることなく、議会内で所属する党派に起立される程度は弱い。

カール・シュミットの議会批判

第一次世界大戦後に活躍したカール・シュミットは『現代議会主義の精神的地位』で、機能不全に陥った議会制を描いた(ココココを参照)。

大衆が政治参加し、政党が発達した民主政下では、議員は自力で当選することが不可能となり、組織政党の一員でしかなくなる。そして、そのような組織政党が真の公益を目指して議論するのは不可能で、公開の場では、互いに硬い主張をぶつけ合い、密室の協議によって利害の妥協点を見つけるだけになる。リベラルな議会はもはや、前提条件を失い機能不全に陥っている。このようにシュミットは主張した。

ハンス・ケルゼン議会制民主主義の擁護

このシュミットの批判に対し議会制民主主義を擁護したのが、同時代のハンス・ケルゼンである。

ケルゼンは、「真の客観的公益の存在に対する信念が失われた時代では、多様な利害の調整こそが政治のなしうる最大限であるとし、議会制はそれを実際に遂行するべきである」と主張した。

ここで、著者は、この価値相対主義に立つケルゼンの議論は、戦後日本の民主感に影響を与えているとして、憲法学者宮沢俊義の言葉を引用している。

ハーバーマスの提案

現代のような政党に支配されている議会制においても、なお公益の実現を目指す真剣な討議が可能であると、ユルゲン・ハーバーマスは提案している。

それは、「政党に属する政治家は、確かに硬直的な議論をぶつけ合うだけであるが、しかし、彼らは政敵の肩越しに国民一般に向けて語っている。それにより喚起された公論は、議会選挙等を通じて、長期的には国政へと反映される」というものである。

著者は、著者(本書)の公益の場は、ハーバーマスの言う公益圏(公益空間)よりも明会に狭いと注釈をし、自身の立場を明らかにしている。

アメリカ合衆国での民主主義の発展

今までは、主にヨーロッパでの議会制民主主義の発展の歴史であったが、ここでは、アメリカの民主主義について述べられる。

デモクラシーは、ヨーロッパから見るとアメリカ合衆国において、順調な発展を遂げたとまず指摘する。しかし、アメリカの建国の父たちが、もともとデモクラシーに好意的だったわけではない。

「建国の父」の一人、ジェイムズ・マディソンは、人民による政治が「派閥の横暴(Violence of faction)」という危険にさらされていると指摘する。しかし、このような派閥の発生は人間の本性に由来し、取り除くことはできない。マディソンは、その弊害を抑制するは、規模の大きな「共和国」、つまり代表制国家をつくることであると考えた。

小規模な直接民主制では、派閥の弊害を抑制することは困難だが、大きな共和国ならば、多数派を構成しようとすれば、多種多様な派閥に共通する利害を標榜するように迫られるため、より広範囲な利益が自然に実現される。

ここで著者は、共和国ないし共和制(republic)という概念は、古代ギリシャ以来プラスのイメージであると指摘し、マディソンが共和制の概念に訴えたのはそのためであると言っている。しかし、のちの世代から見れば、マディソンが設立したのは、大規模な民主政治である。

ここで、著者は、このような「共和制」というプラスのシンボルを用いて「民主制」の内実を組み換えようとした動きは、同時代のフランスにもみられるとしている。

フランス革命時、山岳派のリーダーだったロベスピエールは、民主的であることは協和的であると主張している。

デモクラシーは、多数者たる無産者が自分たちの利益を求めて行う政治というかつての意味を離れ、多数者が社会公共の利益を求めて政治を行う共和制(republicのもととなるラテン語 res publicaは、「公共の事柄」を意味する)のと同じ意味を担わされるようになる。(抜粋)

トクヴェルの分析とアメリカの民主制

ここで、一八三七年にアメリカ合衆国を訪れたフランス貴族のアレクシス・ドゥ・トクヴェルの分析の話となる。

トクヴェルは、アメリカで民主制が成功している要因として、

  • 宗教と政治の分離
  • 教育の普及

をあげている。

そのうえで、君主制の下で自由を保障してきた諸条件(君主の温情、貴族の名誉、宗教、家族愛、地方の慣行、伝統的慣習など)が崩壊したヨーロッパ諸国では、

  • アメリカと同様に民主政の下で自由を保持する
  • 独裁政治の下で暮らす

のどちらかになると予想を述べた。著者はこの予想は、将来の世界がアメリカとロシアによって二分されるという予想に響き合っている、と言っている。

アメリカで発展したデモクラシーは、第二次世界大戦を通じて、誰もが疑うことのないプラス・シンボルになった。(抜粋)

シュミットの理解では、ファシズムも共産主義もデモクラシーとなる。しかし、第二次世界大戦、そしてその後の冷戦の終結を経て

異なる価値観の公正な共存を許さず、支配層が人民に政治的責任を全く負うことのない体制をデモクラシーと呼ぶことは、もはや認められない。現時点では、リベラル・デモクラシーのみがデモクラシーの名に値する。(抜粋)

このあたりのことは『アメリカ革命』を読んだので、ちょっと強いぞ!マディソンの大きな共和国論は、合衆国憲法論の古典となっている『フェデラリスト』の第五一編にあるんだよ!エッヘン!(ココを参照)え?忘れていたのにそんなにエバルな?? ガボン!(つくジー)

民主主義になぜ憲法が必要か

第3章の最後に、著者は「民主主義になぜ憲法が必要か」という問題について考察している。

人民が主権者である民主主義において、「公と私の区別」や「人びとの権利の保障」(立憲主義の条件)などは、憲法で規定しなくても、民主政治を通して、それらが可能ではないかという疑問がある。

これに対して、著者はそれには様々な答えがあるが、ここではプレコミットメント(precommitment)という考え方を紹介するとしている。

このプレコミットメントは、「自分が非理性的な行動をして自らの利益を害する危険が予想されるとき、自分の行動の幅を予め限定するという方策」のことである。

ここでプレコミットメントの例として、これから飲酒するときに、車のキーを自分の信頼する人に預けるという行動を示している。この考え方によると「権力分立」もプレコミットメントと見ることができる。

また、ジャン・ボーダンは、貨幣鋳造権が主権の一要素であっても、賢明な君主はそれを自分自身で行使すべきでないとした。それは、自分で行使した場合、貨幣の信用を失い、政治力・財政力は低下するからである。制約された権力の方が無制約な権力よりも強いのである。

民主国家において、主権者であるはずの人民の政治的な決定権が憲法によって制限されているのも、そういう制限を課せられた政治権力の方が、長期的に見れば、理性的な範囲内での権力行使を行うことができ、無制約な権力よりも強力な政治権力でありうるというのが、プレコミットメントという視点からの説明である。(抜粋)

関連図書:

カール・シュミット(著)『現代議会主義の精神史的地位【新装版】』、みすず書房、2013年

ヤン=ヴェルナー・ミュラー (著)『ポピュリズムとは何か』、岩波書店、2017年

上村 剛 (著)『アメリカ革命』 、中央公論新社(中公新書)、2024年

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