立憲主義とは —立憲主義と民主主義(前半)
長谷部 恭男 『憲法とは何か』より

Reading Journal 2nd

『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第3章 立憲主義と民主主義(前半)

今日から、「第3章 立憲主義と民主主義」に入る。これまでの章で、立憲主義がいかにして生まれたか、そして、民主主義がいかにして冷戦後の世界共通の政治体制となったかについて学んだ。第3章では、立憲主義と民主主義のことばの使い方について改めて整理するとしている。

第3章は“前半”と“後半”の二つに分けてまとめることにする。“前半”では、立憲主義について、“後半”では民主主義、さらに民主主義がなぜ憲法を必要とするかについてである。それでは、読み始めよう。

立憲主義の定義

立憲主義には、広義と狭義と二つの定義がある。そして本書でいう立憲主義は狭義の定義である。

  • 広義の立憲主義:政治勢力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組みを一般的に指したもの。「法の支配」という考え方も広義の立憲主義に含まれる。
  • 狭義の立憲主義(近代立憲主義):近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みを指す。私的・社会的領域と公的・政治的領域の区分を前提とし、個人の自由と公的な政治の審議決定を両立させる。

また、近代以降の立憲主義とそれ以前の立憲主義には、大きな斬絶がある。

  • 近代以降:価値観・世界観の多元性を前提とし、さまざまな価値観・世界観を持つ人々を公平な共存をはかる。
  • 近代以前:そのような多元性は否定され、むしろ正しい生き方は、一つで教会によるものということが前提となる。

このような違いがあるため近代国家では、封建的な身分秩序が破壊され、政治権力を主権者に集中し、対極に平等な個人が誕生した。

「立憲的意味の憲法」とは

この「近代立憲主義」に基づく憲法を「立憲的意味の憲法」ということがある。

このような憲法は、

  • 政府を組織しその権限を定める
  • 個人の権利を政府の権限濫用から守るため個人の権利を宣言する
  • 国家権力をその機能と組織に応じて分割し、配分する(権力分立)

を持つものである。

フランス人権宣言一六条が「権利の保障が確立されず、権力の分立が定められていない社会は、憲法を持つものとはいえない」とするとき、そこで意味されているのは、立憲的意味の憲法である。(抜粋)

このような「立憲的意味」の憲法は、イギリスの憲法のように成文化されていないものもあるが、近代立憲主義に基づく国家の多くでは成文化されている。そして憲法典は、通常の立法過程では変更を許さない憲法として硬性化され、さらに違憲審査制により、国家権力の制約を確実なものとしている。

ここで著者は、このような立憲主義は、価値観の多元性を認めたうえで、公平な社会生活の便宜とコストを分かち合うという共通認識において生まれたと説明した後、次のように言っている。

立憲主義を理解する際には、硬性の憲法典や違憲審査制度の存在といった制度的徴表のみにとらわれず、多様な価値観の公平な共存という、その背後にある目的に着目する必要がある。(抜粋)

また、カール・シュミット(ファシズム)やカール・マルクス(共産主義)など立憲主義と敵対した思想家との対立点もこの背後にあると言っている。

憲法九条と立憲主義

ここで著者は、その憲法典の徴表ではなく、その背後が大切であるという例として憲法九条の改憲論を引き合いに出している。

まず著者は、

憲法九条の文言にもかかわらず自衛のための実力を認めることは、立憲主義を揺るがす危険があるという議論があるが、これは手段にすぎない憲法典の文言を自己目的化する議論である。(抜粋)

と言っている。

著者は、立憲主義の立場では、「(自分が思う)善い生き方」を人々に強制することはできないとしたうえで、憲法九条により自衛のための実力を保持できないとする意見は、非現実的でありかつ「善い生き方」を強制することになると指摘している。

そして憲法九条が自衛のための実力の保持を認めていないかにみえるが、そうではないことを、憲法二一条を例にして説明している。

憲法二一条には「一切の表現の自由」を保障すると書かれているが、それをもとに、わいせつな表現、名誉棄損を禁止することが許されないという議論は存在しない。それは、憲法二一条が特定の問題に対する答えを一義的に決める「準則(rule)」ではなく、答えを一定の方向に導こうとする「原理(principle)」であるからである。

それと同じように

憲法九条が「原理」でなく、「準則」であるとする解釈は、立憲主義とは相容れない解釈である。(抜粋)

この最後の議論を見ると現在の憲法九条改憲論は、立憲主義の立場からすると、・・・まぁ、変える必要はない・・かな?といった感じだろうか?そして、一方に戦力はびた一文も持っちゃダメという勢力があり、他方にそれでは人々の生活が守れないだろうという勢力がいて、それをうまく均衡を保つように今に至っていて、それは立憲主義の目指すところであるってことだろう。そして憲法典の文言は「原理(principle)」っていうことなので、いわゆる九条の文言は「平和主義」という原理を表しているってことだと思う。

著者は、「憲法改正論議を考える」の項で、

九条を変更して従来の政府解釈の下での歯止めを取り払うことが、果たして「国を守る」ことになるのかという疑いが生ずることになる。現行憲法の基本原理の一つである平和主義を掘り崩しかねない危険をもっているからである。(抜粋)

と言っているが、これは無自覚に憲法典を変えることにより、日本憲法の基本原理である「平和主義」まで変わってしまうことを危惧しているんだと思う。

前回「日本の憲法典を変更する前に必要なこと」の項で、憲法改正論議をする前にこれらの項目を考えようね、って議論がありましたが、ようは、本当に憲法(憲法典でなくて国の基本原理)を変えるには、相当の議論と覚悟を必要とするという主張であるはずである。(つくジー)

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