冷戦後の日本の現状と憲法改正 — 冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利(その4)
長谷部 恭男 『憲法とは何か』より

Reading Journal 2nd

『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第2章 冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利(その4)

今日のところは「第2章 冷戦の終結とリベラル・デモクラシーの勝利」、“その4”である。ここまで“その1”では、戦争の形態の変化から国家の民主化が促進されたこと、さらに国家が議会制民主主義、ファシズム、共産主義の三者に分かれたことが説明され、“その2”において、カール・シュミットの「議会制民主主義批判」三種の国家体制の関連、そして第二次世界大戦で「ファシズム」が排除されるたことが説明された。そして、”その3“は、日本への原爆投下の是非の議論と核の均衡による冷戦の議論、さらに共産主義体制が崩壊することによる冷戦の終結までであった。

今日のところ“その4”では、冷戦後の世界と日本の状況を立憲主義という立場から考察している。それでは読み始めよう。

立憲主義の特徴、公私の区分と議会による一般利益の調整

冷戦は、共産主義陣営が自らの憲法を変更し議会制民主主義を取り入れることにより終結した。ここでまず著者は、リベラルな議会制民主主義の基本となっている立憲主義について再度まとめている。「立憲主義」は、

この世の中には、比較不能といえるほど根底的に異なる世界観・宇宙観が多数、並存しているという現実を認めた上で、その公平な共存をはかる考え方である。人の生活領域を公と私の二つに区分し、私的領域では、各自の世界観に基づく思想と行動の自由保障する一方、公的領域では、それぞれの世界観とは独立した形で、社会全体の利益に関する冷静な審議と決定プロセスを確保しようとする。(抜粋)

カール・シュミットは議会制民主主義における立法過程の偽善性を攻撃した(ココ参照)。

しかし著者は、その立法過程が一般的公益に対する譲歩を個別の特殊利益に対して迫ること、つまり各勢力が一般的公益に即して偽善的に振舞うことを強いる点が、この政治体制の特長であると、指摘している。

観衆の存在を意識せざるを得ないプロセスが多様な利害を整序して、長期的には、社会一般の利益にかなう立法をより多く実現する。

次に著者は、丸山眞男「日本型ファシズムの特徴が、公私の区分を知らない点にある(ココ参照)」という指摘を再度示し、公私の区分について言及している。

戦前の日本では、人の生活領域がすべて、究極の価値の体現者である天皇との近接関係で評価され、さらに天皇自身も皇祖皇宗につながる伝統への服従から自由ではなかった。つまり自らの良心に照らして自由に判断して活動しうる領域は誰一人持ち合わせてなかった。上位者への服従と奉仕を正当化した社会では、公私の区分は否定されていた。

そして、このような公私の区分の否定は、戦前・戦中の日本だけでなくファシズムや共産主義社会に共通している。人々の多元性を否定し、国民(人民)を同質性・均質性を前提とする社会では、多元的価値の共有に意を用いる必要もなく、公私の区分も不要となる

冷戦終結後の世界とバビッドの予測

冷戦の終結は、リベラルな議会制民主主義が共産主義陣営に勝利したことを意味する。

しかし、著者は、それは世界がより安定になったことを直ちに示していない、と指摘している。冷戦終結後も、リベラルな議会制民主主義に基づかないイラン・ミャンマー・中国などの国家が多数存在する。さらに技術の進歩により戦争に高度に訓練された兵士を調達することなく、社会生活の中核部にテロ攻撃を行うことにより、低コストで効果的な打撃を与えることが可能となっている。さらに地球規模の環境破壊など今まで人類が想定していなかった危機も現れている。

そして冷戦後の国家の置かれている状況の変化は、国家目標にも影響する。バビッドは、国民総動員の必要性から解放された冷戦後の国家は、すべての国民の福祉の平等な向上を目指す福祉社会であることを止め、国民に可能な限り多くの機会と選択肢を保障しようとする市場国家に変貌すると予測している。(国民騒動員と福祉国家の関係はココを参照)

こうした国家は、社会活動の規制からも、福祉政策の場からも撤退をはじめ、個人への広範囲な機会と、選択肢の保障と引き換えに、結果に対する責任も個人に引き渡すことになる。(抜粋)

日本の現状と課題

次に著者は、現在の日本が置かれている状況について考察している。

現在、経済大国となった中国は、リベラルな議会制民主主義国家ではない。また東南アジアの多くの国が経済発展し軍備の拡張をしている。中国は「国家統一」を名目に台湾に武力行使をする可能性を否定していない。それは、「中国の一部(台湾)」が自由な選挙と思想・表現の自由を享受している事態は、中国の現体制の正当性を脅しているからである。

ヘンリー・キシンジャーによれば、ナショナリスティックな情念が渦巻く現代の東アジアは、二一世紀初頭の欧米諸国よりははるかに一九世紀のヨーロッパに似ている。(抜粋)

東アジアで近い将来、正規軍動詞の大規模な会戦が発生する蓋然性は低いが、憲法の相違に基づく武力行使の可能性は、体制の正当性を賭けた冷戦がなお終結していない東アジアでは、消滅したと言えない。

そして、日本と同盟を結ぶアメリカは、他国の憲法が自国の利害と合致しないばあいは、武力行使あるいは脅威を通じて憲法を迫ることに躊躇しない国である。さらに9.11以降は独裁体制を倒し、自由を他国に広げることが、自国および盟友を守ることに直結するのであれば、武力行使を厭わないと宣言している。

日本の憲法典を変更する前に必要なこと

この章の最後に著者は、日本が憲法典を変更するならば、その前提作業として必要なことを三つあげている。

① 日本の憲法が何であるかの見定め

まず日本の憲法が何であるのかを見定める必要がある。そしてその変更の如何は、日本が他の諸国といかなる関係に立つかを基本的に決定する。それは、同一の憲法原理を取る国同士の間にのみ長期的に安定した関係が築けるからである。

そして著者はそのためには、第二次世界大戦の敗戦の結果としての憲法の変更の意味や冷戦の終結で普及した立憲主義がどのような考え方であるかを認識する必要があるとしている。さらに日本が現在でもなお「民族」としての同一性にこだわり、公私の区分に否定的な社会なのか、足元を確かめることも必要としている。

② 冷戦後の世界での日本の憲法原理の決定

次に冷戦後の世界で日本がいかなる憲法原理に従うかを決定する必要がある。日本がバビッドの予測のように、福祉国家としての任務分担を放棄し、機会拡大と引き換えに各個人への責任を転嫁する国家に変貌するのかという問題である。

バビッドの戦略と憲法の密接な相互関係性は、今後の国家のあり方を考える上で重要である。軍事的な意味での安全確保の必要性は国家権力の根拠の一つにとどまる。その他の国家の活動範囲の画定は可能でありそれを国民の審議で決める必要がある。

③ 日本の外交面・防衛面のあり方

国民の生命と財産の安全の確保という任務を果たすため、そして立憲主義という社会基盤を守るために、日本が外交・防衛の面で何をし何をなすべきでないかを決める必要がある。

著者は、冷戦下で共産主義の脅威に対処するためにアメリカの核の保護を受けたことは、合理的な選択としながら、それ以上に、他国の体制の変更を求めて武力を行使することを厭わない特殊な国家と深い絆を求めるのか否かは慎重に考える必要があるとしている。


この部分は、なるほどちょっと難しい。

①は、現在の日本の憲法が歴史的な意味を理解し、それが立憲主義に基づくものであることを認識しようということだと思う。その変更・・・つまり、立憲主義からの離脱?・・・・は、いかなる国と仲良くしますか?ということを考えてからね!ということでしょうか?

ちなみに、日本がどのくらい「民族」の同一性にこだわる国になるかという論点は、人それぞれあると思う。

②は、これからの話で、バビッドの予測のように福祉国家をやめますか?ということを議論する必要があるってことですね。後半は言い回しが難しく釈然とはしないが、ようするに憲法九条論議のような軍備面とは切り離して上でも、国家の活動範囲・・・どこまで福祉の範囲を広げますか?とか・・・・を議論する必要があるってことだと思う。

③は、ようは、憲法を改正しアメリカと共に他国の体制の変更を求めて武力行使をするような国になりますか?どうですか?みたいな感じでしょうか??

どれも議論がある論点だと思う。(つくジー)


そして以下のように言って第二章を結んでいる。

以上のような課題は、憲法典の改正に乗り出そうとするか否かにかかわらず、検討されてしかるべきである。こうした課題について国民の合意を練り上げる作業は、憲法典の改正よりはるかに重要なその前提作業である一方、この作業の結論に比較するならば、憲法の改正自体は、二次的な意味しか持たないだろう。というのも、もともと、成熟した民主国家にとって、憲法典の改正を通じてしかなしえない事柄は、さほど多くないからである。この論点については、第5章で説明する。(抜粋)

コメント

タイトルとURLをコピーしました