国境はなぜあるのか(後半)
長谷部 恭男 『憲法とは何か』より

Reading Journal 2nd

『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

終章 国境はなぜあるのか(後半)

今日のところは、「終章 国境はなぜあるのか」の”後半“である。”前半“では、終章で取り扱う問題の一つ目・「なぜ国家が複数存在するのか」=「なぜ国境が存在するか」という問題についてであった。そして今日のところ”後半“では、二つ目の問題・「ある国家の権威は、どのような範囲まで及ぶべきか」=「国境はいかに引かれるべきか」という問題についての考察である。それではラストスパート。

ジョゼフ・ラズの「権威に関する通常正当化テーゼ」

第二の論点は、「国境はいかに引かれるべきか」=「国家の権威はどこまで及ぶべきか」である。

著者は、この問題に関しての著者の回答はジョゼフ・ラズの提唱した「権威に関する通常正当化テーゼ」に従っているとしている。

ラズによれば、人が権威に従うべきなのは、権威がそう命ずるからという理由以前に、その人にそうした行動をとるべき独立の理由がすでに存在するからであり、しかも、各人がそれぞれ独立に自分のとるべき行動が何であるかを判断するよりも、権威の命令に従った方が、各人がとるべき行動をよりよくとることができるからである。(抜粋)

このラズの通常正当化テーゼは、本来は各人が自分で判断して行動すべきなのに、そうしないて権威に従ってしまうという理由を解き明かしてくれる。

ここで大切なことは、権威が権威としてあるのは、権威に服従する側がどのような問題に直面しているか、どのような行動が要求されているかに依存するということである。

権威と称する人や団体に果たして服従すべきか否かは、服従する者にあてはまっている問題状況との関係で相対的に決まる。(抜粋)

このラズの定理の説明は一見難しいが、著者はこれを英会話の例で分かりやすく説明している。そこも抜き出しておこう。

たとえば、私が英会話の教師のいう通りに発音すべきなのは、私が自分で判断して発音するよりも、よりよく英語を習得することができるからだし、私が英語を習得すべきなのは、教師にいわれたからという理由以前に、私の英語を習得すべき独立の理由、たとえば、アメリカに出張しなければならない、という理由があるからである。(抜粋)

なるほど、そうなんだ!と思いました。(つくジー)

国家の権威の正当化

国家も権威の一種である。国家は、人民がその行動を自分で判断するのではなく、国家の命令(法令)に従うべきであるとしている。しかし、ラズの定理からすれば、それは、国家の命令に従うことで、人民のとるべき行動がよりよくできるからである。そうでなければ、国家の命令に従う理由は定かではなくなる。

ラズは、国家の主要な任務を

  1. 調整問題の解決
  2. 囚人のジレンマ状況の解決(公共財など)

とした。

①は、誰もが、他の大部分の人々が選択するような選択をしたいと考えている問題状況。②は、誰もが自分の短期的利害を追究すると、社会全体としては最悪な選択に陥るというジレンマの状況、である。

国家の権威がこのように正当化されるのであれば、それが及ぶ範囲も、人々が直面する問題状況を適切に解決する立場が国家にあるか否かによって異なるはずである。(抜粋)

ここで著者は、幾つかの例を挙げている。

  • 環境問題や疫病などの国境を越えた問題:各国が独自に対処するよりも、国際機関などの指示や裁決に従い国際的な協調関係を作り出すことでよりよく解決される可能性がある。
  • 政府以外の権威:政府よりも宗教的権威や慣習的権威などの方が適切に問題を解決する場合は、人々は政府ではなくそのような非政府的権威に従う理由がある。
  • 地方公共団体:中央政府が問題を解決すべきか、地方公共団体が問題を解決すべきかは、問題の性格による

このように、国家の権威が及ぶ範囲は本来の問題をいかに解決すべきかという視点から評価されるべきである。そのため国家の権威が正当に及ぶべき範囲は、必ずしも国境とは一致しない

国境線へのこだわり

ここで著者は、著者が本章の冒頭(ココ参照)で述べたバーナード・ウィリアムの主張・「国境をいかに引くべきかについて、あらゆる場合に妥当する原理的な正解は存在しない」に賛成しる理由がある程度明らかになったと言っている。

国境が功利主義的な理由で引かれたとしても、シュミットの立場からしても、またカントの立場からしても、現在国境が現在の形に引かれる理由はない(ココ参照)。そして一国の権威の及ぶ範囲と国境とが一致する理由もない。

つまり、何が適切な国境の引き方かに関する、原理的で一般的な回答は存在しない、ということになる。(抜粋)

この国境の線引きについてトーマス・シェリングは、それは調整問題の解決手段であると指摘している。国境で肝心なことは、隣り合う国からみて「わかりやすい」「明確な」「目立つ」線に決まる。

この国境の引き方に原理的で一般的な回答が存在しないということが、国家が国境線にこだわる理由となる。もし、国境線から後退を始めれば、踏みとどまれることのできる線は、原理的にどこにも存在しないからである。

その他の境界線と憲法典へのこだわり

国境のような状況は、他の「どこに引くかという確定的な根拠がない問題」についても同様である。「プライバシーの境界線」「戦闘員と非戦闘員の境界線」「国と国との境界線」「国民と国民の境界線」は、いずれも引くべき線がおのずから定まってはいない。そのため、国境と同じように現在引かれている線にこだわりがちである。

そして、この境界線の維持が自己目的化する傾向を生み出しがちである。しかし、国境や国籍がそれ自体、目的でなかったと同様に境界線はそれ自体が目的ではない。

そして著者は本書の最後をこのよう言って終えている。

同じことは、憲法典にもあてはまる。憲法典を変えることが自己目的であってはならないように、現在の憲法典のテクストをただ護持することが自己目的であるはずがない。(抜粋)

この最後の一文がようするに本書で言いたいことなんだと思う。本書によれば憲法典を変えたところで本質が変わるわけでなく。反対に国民の考え方が変われば憲法典がどのようにあっても、憲法は変わってしまうわけですねぇ。

つまりは、日本憲法の原理である「平和主義」を一人一人がどのように考え、また伝えていくかが大切ってことでしょう。自衛隊を憲法典に書き加えたところで、「平和主義」が変わらなければ、何も変わらず、反対に憲法九条がそのままでも、国民の意識が変わってしまったら、それは変わってしまう。目的は憲法典ではなく、皆が平和に暮らすということで、そこをしっかり考えようね・・・・って感じでしょうか?(つくジー)

[完了] 全20

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