国境はなぜあるのか(前半)
長谷部 恭男 『憲法とは何か』より

Reading Journal 2nd

『憲法とは何か』 長谷部 恭男 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

終章 国境はなぜあるのか(前半)

今日からいよいよ「終章 国境はなぜあるのか」に入る。今まで、国家権力の組織の仕方やその限界づけのあり方について議論してきたが、そこには、世界には複数の国家が存在することが前提であった。

終章では、「なぜ国家が複数存在するのか」=「なぜ国境が存在するか」という問題と、「ある国家の権力は、どのような範囲まで及ぶべきか」=「国境はいかに引かれるべきか」という問題について考察している。

本章の結論をあらかじめ述べると、「国境をいかに引くべきかについて、あらゆる場合に妥当する原理的な正解は存在しない」。これは、最近、逝去したイギリスの哲学者、バーナード・ウィリアムズの観察でもある。(抜粋)

終章は、“前半”と“後半”の二つに分けてまとめることとする。”前半“は第一の問題を”後半“は第二の問題を扱う。それでは読み始めよう。


国境はなぜあるのか — 功利主義的回答

最初の論点は、なぜ国境があるのか、つまり、地球上にはなぜ一つの国家ではなく、多数の国家があるのかである。この問題に関する一般的な回答は、功利主義(utilitarian)なもののように見える。(抜粋)

ジョン・ロールズ『諸人民の法』)は、国境の役割について財産権の比喩で説明している。

まず、ある資産について、特定の人間が所有者として責任をもって管理しない限り、資産の価値は次第に失われていく。そこで社会契約論からすると国家が設立されていない自然状態では、あらゆる資産があらゆる人の共同所有に属し、だれも特定の資産について管理しないので、すべての資産が劣化していく。

これと同様に、政治的に組織された人民は、その領土とその環境を保全する責務がある。この責務が果たせないと、人口の国外流出や周辺地域への軍事的領土拡張などの、国際平和を脅かす事態が起こる。

つまり、国境がどう引かれているかに関わらず、その領域内を特定の人々が責任をもって管理することにより、地球全体もよりよく管理されることになる。

また、ロバート・グッディンの説明も同様に功利的である。彼は「なぜ、それぞれの政府は、自国の国民の権利のみを保障しようとするにか」という問いに対して、

本来はすべての政府がすべての個人の権利を保障すべきなのだが、そのとおりにすべての政府が行動すると、かえって個々人の権利は実行的に保障されない。国籍にもとづいて人々をそれぞれの政府の管轄に配分し、特定の政府が特定の人々の権利を保障するような役割分担をした方が、人権は全体として実行的に保障される。それが国籍の役割であり、それ以上でも、それ以下でもない。(抜粋)

と答えている。

両者の議論からすると、現在の国境がどう引かれているかはさしたる意味はなく、人類全体として果たすべき仕事の役割分担の目印となっているだけである。逆に地球環境や人権保障に関する地域ごとの役割分担が低下し、地球上をすべて覆う単一世界国家がこのような役割を的確に行えるならば、国境の意味はなくなる

国境はなぜあるのか — 「政治的なもの」

次に「国境はなぜあるのか」についての「政治的」な説明が書かれている。

カントの『永遠平和のために』での考え方

カントは『世界平和のために』の中で、お互いに独立いた隣り合う国家の敵対的状は、他を抑圧して世界王国へと移行していくよりはよい、

なぜなら、統治範囲が極端に拡大した世界国家では法による統治が実効性を失って「魂なき専制」がもたらされ、それは結局、無政府状態へと堕落していくことが予想されるからである。(抜粋)

と言っている。

このカントの主張は、前のロールズやグッディンと同じように見え、世界帝国の統治に対する懸念を示しているように見えるが、カントの議論にはもう一つの読み方ができる。

カントの国家の存在根拠に関する主張は、ホッブズに影響を受けている。ホッブズは自然状態における万人の万人に対する闘争を終結させるには、自然権をすべて主権者に譲り渡し国家を設立することであると主張した。それは、

  1. 人間は自己の生存をかけて互いに闘争する存在である
  2. その闘争への思考は国家を設立することにより極小化できる

という相反する二つの思考を妥協することにより成り立つ。このホッブズの議論は、視野を一国のみに限れば有効であるように見える。

しかし、成立する国家は多数あり、それぞれが自然状態にあり、そしてカントが指摘すように、相互に敵対的状況に置かれている。

カントが『永遠平和のために』で描いていたのは、多くの国々が、それぞれ共和政体を採用し、常備軍を廃止し、他国の侵略に対しては人民武装で対処するという体制をとることで、全体としては、より戦争の起こりにくい状況を作り出すことができるという構想であった。(抜粋)

これは、ホッブズの論じ残した国家が互いに敵対状態にあるという問題のカントの答えである。同じ問題についてのルソーの答えは、第二章で論じられている(ココ参照)。ここにはホッブズの二つの前提①と②が継承されている。

シュミットの人間と国家

ここで、②の国家による闘争の矮小化は、世界国家でもできるのではないかという疑問が生まれる。

その可能性を否定するには、

  1. カント:世界国家の統治の実効性を否定すること
  2. カール・シュミット:人間の根底的性質から、世界国家は存在しえないというもの

が考えられる。

②は、カール・シュミット『政治的なるものの概念』で主張した立場(より正確には、レオ・シュトラウスの理解したカール・シュミットの立場)である。

カール・シュミットは、いったん国家が成立すれば、自己の「敵」と「友」を区別する「政治的なるもの」は、国家には無くなり、ただ治安維持を典型とする「行政」のみがのこる。そして、「政治的なるもの」は、国家の存在を賭けた問題となり、国家間の強烈な闘争へと発展すると主張した。(このシュミットの主張については、第二章のココを参照)

シュミットは、平和主義者の人間観・国家観の下で世界が統一されても、そのような世界においても、やはり様々な対立や対比、競争や策謀が存在するだろとコメントしている。

シュミットの立場からすると、ホッブズやその思想から生まれたリベラリズムも人間の本質について、そして国家の本質について決定できないでいる。

つまり、人間については、「人間は闘争する」「国家がそれを抑制しうる」どちらかに決定できない、国家については「国家は互いに敵対する」と「敵対は極限的な闘争に陥ることはない」について中途半端な状態である。

つまり、リベラリズムは中途半端な均衡点を目指す思想だということになる。「永遠平和にむけて」カントが描く諸国家が並存する状況も、この中途半端な均衡点にすぎない。(抜粋)

生の意味をかけた闘い

シュミットがなぜリベラリズムに否定的であるかを、シュトラウスがある回答を与えている。

そして、その回答は、近代立憲主義が解決しようとした問題、比較不可能な価値観・世界観が公平に共存しうる社会をいかにして構築するかという問題の位置づけと関連している。(抜粋)

第1章(”前半”、”後半”)にあるように、人々がその根源的な問いに対して両立しない複数の立場を争えば、相互の聖と私をかけた闘争へと至る。そして、立憲主義は、このような血みどろの宗教戦争から抜け出すためにお互いの違いを認めつつ、なお社会全体に共通する利益の実現を求めて、冷静に討議する場を切り拓くプロジェクトであった。

この立憲主義は、信仰に如何にかかわらず誰もが所有するグロティウスやホッブズの自然権によっている。

シュトラウスはこれを

「近代ヨーロッパは、正しい信仰に関わる戦いから逃れるために、中立的な基礎そのものを探し求めようとした」。(抜粋)

と言っている。そして、この「中立的な基礎」を探し求める試みは、「人間生活の意味を犠牲にする場合にのみ可能である」としている。なぜならばそれは「正しいものは何かと言う問いを立てることを放棄した場合のみ可能」だからである。

人間が自分の生きる意味にあくまでも執着するとき、つまり、「人間が、正しいものは何かという問いを真剣に立てるとき」、シュミットのいう「解決不可能の問題(unentwirrbaren Problematik)」、そして「生死をかけた戦いが火を吹く。正しいものは何かという問いを真剣に立てることのなかに、政治的なるもの --- それは人類を友と敵に分類する--- の正当な根拠がある」。(抜粋)

この生の意味をかけた問いかけをやめようとしないとき、とどまることのない闘争がつづく、そしてその闘争は国境線をもって停止することはない

シュミットにとって重要なのは、友と敵の対立を是が非でも調停しようとする中途半端なリベラリズム(立憲主義)との戦いではないことがわかる。彼が予期するのは、中途半端な調停者の肩越しにみえる真の敵との戦いである。(抜粋)

ここのシュミットの主張もなかなか迫力がありますねぇ。カール・シュミットはそのような考え方から議会制民主主義を攻撃し、ファシズムや共産主義体制に期待した人ですからね。そうそう、確かに現代のポピュリズムにもそのような流れがあるように感じます。ただ、本書の主張は、結局歴史はファシズムや共産主義でなく議会制民主主義を選んだ、ってことですね。

でもまぁ、なんというか議会制民主主義が「中途半端な状態」というのは、そのような感じでして、それなのに何で、このシステムを選ぶ必要があるかってことは、みんなが幸せに暮らせるってことで、それをシュミットのような主張により壊されないためには、やはり自由や人権がなぜ必要なのか、それをどのような歴史をへて勝ち取ってきたのか・・・・などなどを伝えていくことが大切ですね。

このあたりの議論は、第2章のココを参照してください。ちなみに、ポピュリズムに関しては『ポピュリズムとは何か』も参照してくださいませ。(つくジー)

関連図書:

ジョン・ロールズ(著)『万民の法』、岩波書店(岩波現代文庫)、2022年
カント(著)『永遠平和のために』、岩波書店(岩波現代文庫)、1985年
カール・シュミット(著)『政治的なるものの概念』、岩波書店(岩波現代文庫)、2022年
ヤン=ヴェルナー・ミュラー(著)『ポピュリズムとは何か』、岩波書店、2017年

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