感覚を研くこと
谷崎 潤一郎 『陰翳礼讃・文章読本』より

Reading Journal 2nd

『陰翳礼讃・文章読本』 谷崎 潤一郎 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

感覚を研くこと —- 二 文章の上達法

今日のところは、「二 文章の上達法」「感覚を研くこと」である。前回の「文法に囚われないこと」では、日本語には難しい文法はなく、また文法的に正確な文章が必ずしも名文でないのだから、必要以上に文法に囚われないことが必要であると書かれていた。

今日のところ、「感覚を研くこと」では、文章の上達には、文章に関する感覚を研き、名文、悪文の区別がつくことが必要であると論ぜられる。それでは、読み始めよう。

名文には様々あること

文章に上達するのには、どう云うのが名文であり、どう云うのが悪文であるかを知らなければならない。(抜粋)

しかしながら、文章のよしあしは、理屈を超えている。

読者自身が感覚をもって感じ分けるより外に、他から教えようはないのであります。(抜粋)

そして谷崎は、自分が「名文とはいかなるものものぞ」という質問に対しては、

長く記憶に留まるような深い印象を与えるもの
何度も繰り返して読めば読むほど滋味がでるもの(抜粋)

が答えであると言っている。しかしこの答えでは、感覚を持っていない者はさっぱりわからない。

そして、この名文というものには、標準がなく一律に決めることは却って危険である。なぜならば名文と悪文の差は紙一重だからである。

ここで谷崎は、名文の例として西鶴の文章(西鶴著 艶隠者巻之三 「都のつれ夫婦」)と、森鴎外の「即興詩人」からの文章を引用している。

西鶴の文章は、何とも言えない色気に富んだ名文であるが、文法などはけたを外れている。谷崎は、これを朦朧もうろうと称している。逆に鴎外の文章は、まったく癖がなく、文法的にも正確な書き方である。谷崎は、このような文章も名文であるとし、これを朦朧派に対して、平明派の名文と言っている。しかし、このような名文を、下手なものが模倣した場合には、西鶴のような文章も鴎外のような文章も、一歩誤れば悪文となる。

このような文章には、その人の頭脳や、学識などの精神の光があり、そこまで味到しないと、その風格がわからない。

文章の味と感覚のみがき方

要するに、文章の味と云うものは、芸の味、食物の味と同じであります。(抜粋)

このような味がわかるようになるには、カンが第一である。そして、

然るに感覚と云うものは、生まれつき鋭い人と鈍い人がある。(抜粋)

味覚や聴覚などに生まれつき感覚の鋭い人がいるように、文章もその感覚に秀でた人がいる。これは、生まれついの能力であるので、後天的には、如何ともしがたい。しかし、

多くの心がけと、修養次第で、生まれつき鈍い感覚をも鋭く研[みが]くことができる。(抜粋)

谷崎は、その感覚のみがき方として

  1. 出来るだけ多くのものを、繰り返し読むこと
  2. 実際に自分で作ってみること

を勧めている。

何度も名文を繰り返し読むこと

①の条件は文章に限らず

総べて感覚と云うものは、何度も繰り返し感じるうちに鋭敏になるのであります。(抜粋)

といっている。そして、三味線の稽古の話を引き合いに出した後、

文章に対する感覚を研くのには、昔の寺子屋式教授法が最も適している所以ゆえんが、お分かりになったでありましょう。(抜粋)

と言って講釈せずに、ただ繰り返し読む、素読の教授法(ココを参照)が有効であると言っている。

しかし、現在はこれを実行することは困難であるが、せめて古来名文というものを繰り返し、暗礁でするくらい読むことを勧めている。そしてそのとき、意味がわからない箇所があっても気にせずにそれにこだわらず進めることが大切である。

実際に文章を書くこと

感覚を敏感にするには、他人の作った文章を読む傍ら、時々自分でも作ってみることに越したことはありません。(抜粋)

もちろん文筆を以て世に立とうとする人は、多く練習をしなければならないが、読む側の人も、鑑賞眼を確かなものにするためには、実際に作る必要がある

ここより谷崎は、三味線や料理、絵画、芝居などの豊富な例により、それを少しでも習うことが、どんなに鑑賞に役立つかを説明している。

観察眼の個人差について

ここで、感覚と云うのは個人個人で違うため名文も悪文も、個人の主観を離れて存在しなくなるのではないか、という疑問が生ずるかもしれない、と谷崎は言っている。しかし

さような疑問を抱く人に対しては、私は下のような事実を上げてお答えしたいのであります。(抜粋)

と言って、日本酒の品評会において、さまざま趣向を持つ専門家がいるにもかかわらず、一等酒の多くはぴったりと一致するという事実を紹介している。

即ち感覚と云うものは、一定の研磨を経た後には、各人が同一の対象に対して同様に感じるようにつくられている、と云うことであります。そうしてまた、それ故にこそ感覚を研くことが必要になってくるのであります。
ただしかしながら、文章は酒や料理のように内容の単純なものでありませんから、人に依って多少好む所を異にし、一方にかたよるというような事実が、専門家の間においても全くないことではありません。(抜粋)

このことを示すために、源氏物語の批評が人により名文であるとする人と悪文であるとする人とに分かれる事実を上げている。

源氏物語を批判する人は、和文趣味より漢文趣味を好み、流麗な文体よりも簡潔な文体を好む傾向がある。

同じ酒好きの仲間でも、甘口を好む者と、辛口を好む者とがある、さように文章道においても、和文脈を好む人と漢文脈を好む人とに大別される。(抜粋)

このような大別は、今日の口語体の文学にも存在し、和文のやさしさを伝えているものと、漢文のカッチリした味を伝えているものがある。この分類については、

一番手ッ取り早く申せば、源氏物語派と非源氏物語派になるのであります。(抜粋)

と言っている。

かように申しましても、感受性は出来るだけ広く、深く、公平であるに越したことはありませんから、強いて偏ることは戒めなければなりませんが、しかし皆さんも、多く読み、多く作っていくうちに、自然自分の趣向に気付かれる折りがあるかもしれません。そうして、そう云う場合には、なるべく自分の性に合った文体を選び、その方面で上達を期するようにされるのが得策であります。(抜粋)

コメント

タイトルとURLをコピーしました