西洋の文章と日本の文章(後半)
谷崎 潤一郎 『陰翳礼讃・文章読本』より

Reading Journal 2nd

『陰翳礼讃・文章読本』 谷崎 潤一郎 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

西洋の文章と日本の文章(後半) — 一 文章とは何か

今日のところは、「西洋の文章と日本の文章」の”後半“である。”前半“では、西洋からの語彙の流入は、良いことだがそれには限度があり、むしろその流入のための起こる混乱を整理することが急務であることが示された。その理由は、日本と西洋の国民性の違いにより、西洋語が修飾を幾重にも積み重ねることが得意なのに対し、日本語が少ない言葉で意味を表すことが得意であることによる。

それを受けて今日のところ”後半“では、①.修飾を重ねる西洋語をそのまま日本語に訳すと分かりづらくなること、②.日本語を西洋語に訳すと文章の量が増え、曖昧さによる意味の広がりが欠けてしまうこと、を具体的な例を以て示される。さらに西洋語が得意とする科学、哲学、法律などの学問に関する記述について考察されている。それでは、読み始めよう。

修飾語を積み重ねる西洋語の特徴 — テオドール・ドライザー『アメリカの悲劇』を例にして

ここで谷崎は、西洋語の特徴を示すために、テオドール・ドライザー『アメリカの悲劇』から長文引用する。その引用部は、主人公が殺人を行おう決めかねているときに「顔の表情」である。そして、谷崎は、その原文の引用の後、その英語をできるだけ逐字的に訳した訳文を示す。

そしてその逐字的訳文を「故意に分かりにくく訳したわけではない」と断ったうえで、いかに修飾を積み重ねて詳細に顔を表現しているかを解説している。そしてその英文について、

評論家の小林秀雄氏はその著『続文芸評論』の中でこの英文を引用して、「これはドライザアの描いたクラウドの顔である。精細な心理解析の見本を沢山見せられてゐる私達は、この文章を別段見事だと感じない。しかし彼がもっと精細にクラウドのほんたうの顔を心理的に分析してみせてくれたとしても、読む者は決してクラウドのほんたうの顔を思ひ浮かべる事は出来ぬのである。」と言っている。(抜粋)

西洋人はこのように顔一つでも、沢山の修飾語を羅列し、それが次々と読者の頭に這入り込み、作者の意図した情景を現わそうとする。しかしそれは英文の構造が多くの形容詞を羅列するのに適するように出来ているからである。

それを日本語に訳すと、原文の語句を追うのが精いっぱいで、読者にはただごちゃごちゃしているだけで、どんな顔つきであるか全くわからない。こそれは日本文の構造による。

さらに谷崎は、先の英文を日本語として読みやすいように直した文を紹介している。しかし、それもようやく意味が辿れる程度で、すらすらと情景が頭の中に入ってこない。

われわれの国語の構造では、あまり言葉を重ねると重ねただけの効果がなく、却って意味が不明瞭になることは、この例を見ても明らかであります。(抜粋)

少ない文章で意味を伝える日本語の特徴 — アーサー・ウエーレー 『源氏物語』を例にして

つづいて日本語の原文と英訳を比べるために、源氏物語須磨すまの巻の一節とアーサー・ウエーレーの英訳とを引用している(英訳文にはその翻訳が付けられている)。

このアーサー・ウエーレーの英訳は、名訳と評判が高く、難しい源氏物語を流暢な英文に訳されている。なぜ谷崎がこの日本語と英訳を対比させたかというと、

同じことを書いても英語にするといかに言葉の数が多くなると云う実例として、お目にかけるのであります。ご覧の通り、原文で四行のものが、英文では八行(その直訳で九行)に伸びています。(抜粋)

そして、それは英文には、原文にない言葉が沢山補っているからであるとしている。

この後、具体的な例を挙げながら、原文では、云わなくても良いところは成るべく云わないで済ませているが、英文の方は、そこに言葉をおぎない文を精密にして、意味の不鮮明なところないようにしている、ことを示している。

しかし、原文も、必ずしも不鮮明なのではない。(抜粋)

谷崎はここで、原文の「古里覚束なかるべし」と、その英文の直訳「彼が最も好んだ社交界の総ての人々と別れること」を対比し、英文の方が意味は鮮明であるが、都を離れる源氏の悲しみは、人々と別れることばかりではなく、心細さ、遣る瀬なさなどもあり、それらの気持ちを取り集めたものとして「古里覚束なかるべし」の一語に籠めている。そして

英文のように云ってしまっては、はっきりはしますけれどもそれだけ意味が限られて浅いものになります。(抜粋)

と評している。

このように、日本の古典では、僅かな言葉が暗示となって読者の想像力を働かせ、足りないところを読者自らが補うようにするが、西洋の書き方では、出来るだけ意味を細かく限り、読者の想像の余地を残さないようにする。

その違いは、西洋の言葉は文法上の規定が多く、多くの語彙を積み重ねても意味が通じることによる。しかし現代人の文章は、西洋のように言葉を濫費らんぴする傾向があり、どちらかというと古典文よりも翻訳文に近くなっている。

かくしてわれわれは、われわれ祖先が誇りとしていた奥床しさや慎み深さを、日に日に失いつつあるのであります。(抜粋)

ここでアーサー・ウェイリーが訳した『源氏物語』の話が出てきているが、最近はそのアーサー・ウェイリー の英訳をさらに日本語訳にしたものが出版されている(『源氏物語: ウェイリー版』(全四巻)(平凡社ライブラリー)など)。

なんで、紫式部から直接現代語にしないで、英訳版を日本語に翻訳するんだろう?と思っていましたが、この文章を読んで、ガテンがいきました。つまりはだ、空白を読者の想像で補わねばならない古典の文章は、谷崎のいう西洋語に侵されてしまったわれわれには読みづらく、かえって意味を補って西洋語に訳したウェイリー版の方が、読みやすいってことですね! あ~~、谷崎が知ったらなんというだろうね。(つくジー)

学問に関する記述の問題

ここで問題となるが、科学、哲学、法律などの西洋から輸入された学問に関する記述である。このような学問は、緻密みつに、正確に書く必要があるが、どうしても日本語の文章ではうまく行き届かないところがある。西洋の哲学書を日本語で読む場合、その哲理の深奥しんおくさよりも、日本語の構造の不備が原因となっていることも多い。

日本語の文章が科学の著述に適さないことは当然であるが、何とかしてその欠陥を補わねばならない。しかし、科学者などは読むも書くも外国語で済ましているのが現状である。そして、外国の論文の翻訳などは、外国語の素養があることを前提として書かれている、外国文化の化け物である。

然らばこの欠陥をいかにして補ったらよいかと申しますと、これはわれわれの物の考え方、長い間につちかわれた習慣や、気質等に由来するのでありますから、文章だけの問題でなくなってきます。(抜粋)

谷崎はこのように言って、このような学問を吸収し、消化して、我々自身の国民性や歴史にかなう文化の様式を創造するべきであると、主張している。そして、この問題はこの読本の範囲外であるのでこれ以上取り扱わないといしてる。そして、

この読本で取り扱うのは、専門の学術的な文章でなく、我等が日常眼に触れるところの、一般的、実用的な文章であります(抜粋)

とし、そのような実用的な一般の文章までが、科学の影響をうけ、不必要に記述の精密をてらい、実用の目的から離れてしまうことを戒めている。そして次のように言ってこの章を閉じている。

語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る充分は長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。(抜粋)

関連図書:
セオドア・ドライサー(著)『アメリカの悲劇』(上)(下) 、花伝社、2024年
小林 秀雄(著)『続文芸評論』 白水社、1932年
紫式部(著)[アーサー・ウェイリー翻訳]『源氏物語: ウェイリー版』(全四巻)、平凡社(平凡社ライブラリー)、2008 – 9年

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