『陰翳礼讃・文章読本』 谷崎 潤一郎 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
調子について(前半)—- 三 文章の要素
今日から、「調子について」に入る。前節(”前半“、”後半“)では、用語について学んだ。谷崎は、用語の選び方の極意は「その選異を樹てようとするな」であるとし、出来るだけ平易な言葉で済ますことを勧めていた。
今日のところは、文章の要素の二つ目「調子」である(ココ参照)。この調子は、その天分に依るところが多いが、ここでは、それを大づかみにて示している。
この調子を谷崎は、
- 流麗な調子
- 簡潔な調子
- 冷静な調子
- 飄逸な調子
- ゴツゴツした調子
に分類し、①、②が基本であり、③、④、⑤はそれから派生したものであるとしている。
この「調子」の節は、二つに分けて”前半“で①、②を、”後半“で、③、④、⑤をまとめることにする。それでは読み始めよう。
文章の調子とは
文章の調子は、音楽的な要素であるので、これは感覚に属しそれを言葉で説明するのは難しい。
つまり、文章道において、最も人に教え難いもの、その人の天分に依るところの多いものは、調子であろうと思われます。(抜粋)
文章はその人の人格が現れであると言われるが、その人格のみならず、体質のようなものも文章には現れ、それが調子である。
されば文章における調子は、その人の精神の流動であり、血管のリズムであるとも云えるのでありまして、分けても体質との関係は、よほど緊密であるに違いない。(抜粋)
そうであるから調子というものは、後天的に教えてもさほど効果がないと思われる。そして谷崎は、
まず大体の種類を挙げ、その種類に属する代表的な作家の名をしめして、いささかご参考にともすることにします。(抜粋)
と言っている。
一 流麗な調子
これは、前に申しました源氏物語派の文章がそれでありまして、すらすらと、水の流れるような、どこにも凝滞することない調子であります。(抜粋)
一語一語が際立つのを嫌い、単語から単語へ移るのにつながり工合を目立たないようにし、センテンスからセンテンスへ移るのも境界をぼかし、そのけじめを分からなくする。
しかし、つなぎ目の分からないセンテンスを幾つもつなげて行くことは、結局非常に長いセンテンスを書くことになりますから、なかなか技巧を要するのであります。(抜粋)
このような文章は、「て」や「だ」が頻出し耳障りになりがちである。
ここで谷崎は、源氏物語の須磨の部分使って、センテンスのつながりがどのようにぼかされているかを具体的に説明している。そして、その部分には「て」の字を使って繋いである部分が無いことを指摘している。
次に、この部分を出来るだけ原文のなだらかな調子を失わないように書きかえた文章と、現代風にセンテンスに区切って書いた文章を示して比較している。
そして、この現代風の短いセンテンスに区切った書き方を、悪文であると云うわけではないとしながら、
関係代名詞のない日本文でも、混乱することなしに、幾らでも長いセンテンスが勝消えることを、忘れている人が多いのではないかとお思いますので、特にそう云う分の美点を力説したちのであります。(抜粋)
と言っている。
その後、その二つの例文を比較して「る」止め「た」止めや主格の省略の問題など技術的な解説をしている。
さらに、源氏物語と雨月物語の文章に主語がやくされていることなどの効果を説明した後、
前の源氏物語の一節と云い、この雨月物語の叙述と云い、畢竟かくの如き文章にはセンテンスの切れ目がない、全体が一つの連続したものでえあると考えるのが至当であります。(抜粋)
としている。
このような技巧的な説明を終えたうえで、谷崎は、これがそれほど実際に役立つとは信じられない、なぜならそれは専ら天稟の体質に依るからである、と言っている。そして、現代でこのような文章を書く作家として、泉鏡花、里見弴、宇野浩二、佐藤春夫の名を挙げている。
そして、このような流暢な書き方は現代では後れ気味としながら、
けれどもひそかに思いますのに、これこそも最も日本文の特長を発揮した文体でありますから、願わくばこれを今少し復活させたいものであります。(抜粋)
言っている。
二 簡潔な調子
これは「流麗な調子」と真逆なものである。この調子は、
- 一語一語の印象が鮮明に浮かぶ
- センテンスの切れ目切れ目が力強くはっきりしている
- なだらかではないが、流れに一定のリズムで反復され、「剛健なリズム」がある。
「流麗な調子」を源氏物語派、和文調とすれば、この「簡潔は調子」は非源氏物語派、漢文調である。そのリズムの美しさも漢文に通じるところがある
この調子には、志賀直哉の小説という見事なお手本がある。
氏の文章における最も異常な点を申しますと、それを刷ってある活字面が実に鮮やかに見えることであります。(抜粋)
これは、言葉の選び方、文字の嵌め込み方に慎重な注意が払われて、一字も疎かにしていないからである。志賀は派手な言葉づかいや難しい漢字を使うことを好まず、用語は地味で質素である。しかし、その文章は、叙述を出来るだけ引き締め、字数を出来るだけ減らし、最も平凡で、最も分かり易く、最もその場に当てはまる語を一つだけ選んでいる。それは書いては読んで無駄なものを削り、そしてまた読み返すの繰り返しが必要となる。
ここで谷崎は、『城崎にて』の一節をお手本として、その文章の特徴を、示している。簡潔な調子では、センテンスとセンテンスの境界を明確にするため、なるべく「た」止めを用いる。しかし時に引き締まった感じをだすために、現在止めを用いるなどの工夫をしている。さらに、「のである」「のであった」などは間伸びするのでこれをさける、などである。
一体、簡潔な美しさと云うものは、その反面に含蓄がなければなりません。(抜粋)
単に短い文章を積み重ねるだけでなく、そのセンテンス一つ一つが十倍にも伸び得るほど中身が詰まっていなければならない。もし間伸びした内容を、ポキポキと「た」止めのセンテンスで綴っただけであれば、それは却って軽薄に聞こえる。
この調子の文章においては東洋的な寡言と簡潔とが「一」の文体よりもさらに大いに要求されるわけでありまして、かたがた孰れの場合にも西洋流のおしゃべりは禁物であります。(抜粋)
志賀の作品も、近代人の繊細さがあり、西洋思想の影響を受けていることは否めないが、その書き方は東洋的であり、漢文の堅さと厚み、充実味とを口語に移したと言ってよい。


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