『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
Chapter 2 芸術の物語 / 悩める画家の二つの都市 — Giverny & Rouen(ジヴェルニーとルーアン)
ここから「Chapter 2 芸術の物語」に入る。最初は、「睡蓮」の連作と「ルーアン大聖堂」の連作を軸にモネの生涯を追っている。
モネと印象派展
一八七四年、「第一回印象派展」で三三歳のモネは、二つの改革を美術史にもたらした。「筆跡分割」と「認識システムの正しい把握」である。
太陽の光は、R(赤)G(緑)B(青)の「光の三原色」の混合からなり、それを全て混ぜると白になる。しかし、絵具ではそうはいかない。「絵具の三原色」は、Y(イエロー)、C(シアン)、M(マゼンタ)からなり、それらを混ぜると黒になってしまう。
つまり自然の光は混ぜると明るくなるが、絵具は混ぜると暗くなる。そのため、色をなるべく混ぜないで原色に近い状態で描く方法を編み出した。これが「筆跡分割」である。
また、人間が物を認識する時は、その細部まで確認しているのではなく、さまざまな色の集まりとして認識している。そのため細部までえがかなくとも物を描くことが出来る。このように「認識システムを正しく把握」して描いた。
しかし、この展覧会は失敗に終わり、開催コストさえ回収することが出来なかった。その後、第二回、第三回印象派展も失敗し、モネも貧困の中にいた。印象派グループは保守的なアカデミズムに反抗するためにサロン展に出展しないことが不文律だったが、盟友のルノワールとシスレーはサロンに応募することを決心する。
第四回展は、ドガの主張により名前を独立芸術家展とした。この展覧会で初めて黒字を出したが、もはやグループは当初の形を失い、内部抗争まで起きていた。一方サロンに出品したルノワールは、経済的安定を手に入れていた。
結局モネは、第五回展には、出品せず、10年ぶりにサロンへ出品する。そして、個展を開き数点の絵が売れた。そして画商のポール・デュラン=リュエルとの関係も強固となった。このリュエルはモネの絵を独占的に扱うようになり、着実に購買層を開拓し、モネの経済的安定をもたらした。
ジヴェルニーと積藁の連作
そしてモネは、パリから離れポワッシーに転居しほうぼうへ制作に出かけた。その取材旅行中に立ち寄った場所に一つがパリからセーヌ川を海に向かって三分の一ほど下った場所のジヴェルニーである。その土地を気に入ったモネは、そこに家を借りる。
この土地でモネは連作という手法を使い積藁を描いた。時間を変えながら積藁の表面の色の変化をニ十点もの連作により描き、その光が作り出す色彩の多様性を描き留めた。そのころモネの作品は安定して売れるようになり、モネはその土地に家と土地を手に入れた。
ルーアン大聖堂の連作
ジヴェルニーに土地を手に入れたころ、モネは新たな連作としてルーアン大聖堂の連作に着手した。
セーヌ河をさらに下ったところにあるルーアンは、下流域で最初に橋が架けられる河幅となるところであったため、中世にはノルマンディー地方の主要な都市となった。そして一二世紀には巨大なルーアン大聖堂が建てられた。ここの広場は、ジャンヌ・ダルク(ココ参照)が火あぶりになった場所でもある。
この大聖堂のファサードを(正面)を描いた三〇点のうち、二八点が、ほぼ同じ視点から描かれている。
積藁が視点をさまざまに変えて描かれていたのに対し、大聖堂はほぼ定点観測と言ってよい、太陽は、刻々と位置をずらしながら、同じ場所で動かないファサードにさまざまな色を映し出していく、時間ごとの純粋なる光と色彩の変化だけを追った試みは、当然ながら美術史で初めての挑戦となった。(抜粋)
モネの庭園と睡蓮の連作
モネは、ジヴェルニーの庭を日本風にしようとした。日本風の太鼓橋を渡し、睡蓮や藤、梅や桜を植えた。このモネの日本への愛は、終生変わることがなかった。
ジヴェルニーは、モネのおかげで有名となり、アメリカなどから画家が移り住み、その数が300人を超えた。それに対してかつての静けさが失われることにモネ自身が苛立ったこともあった。
モネは、六〇歳になるころから睡蓮を描き始めた。その連作は生涯のライフワークとなり、同一モチーフの連作としては、点数、期間ともに世界的にも突出している。
睡蓮の連作は、この偉大な長寿の画家の老年様式への移り変わりを見事に示してくれている。(抜粋)
そして、八〇歳過ぎから、フランス国家と睡蓮の大連作の契約を交わす。それが、現在パリのオランジュリー美術館の特別室にある長大な連作である。
彼は公開を待たずに世を去ったが、芸術家人生における集大成であり、印象派の終焉を告げる作品となった。(抜粋)

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