『英語達人列伝 II』 斎藤兆史 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第VIII章 山内久明
英語の達人八人目は、山内久明。
前著『英語達人列伝』が世に出たころ、もし続編を書く機会があったら、最後に取り上げるのはこの先生にしようと心に決めていた(抜粋)
斎藤は冒頭でこのように言っている。これは、すごい人のようである。
こと英語運用能力とその質の高さにおいて、この先生以上の英語の使い手を僕は知らないし、この人選に異を唱える人は、英語・英文学業界にいないだろう。(抜粋)
さて、読み始めよう。
山内久明は、一九三四年(昭和九)年に、広島で生まれた。父親は私立学校の校長まで勤めた英語教師だったが、英語の手ほどきは、受けていないようである。そして、彼は原爆を体験している。ちょうど原爆が落とされた日に母と一緒に広島の母の実家に行っていたが、泊っていこうという母の提案に反対して疎開先に戻り、何を逃れている。しかし、彼の父親は勤務先の建物で生徒と一緒に被爆し八月末に無くなっている。
原爆体験がトラウマとなって一種の終末観とともに奈落に落ちた感覚に取り憑かれて、そこから脱出する道を文学に求めた。それが英文学を志す原点となった。(抜粋)
戦後、山内は広島高等師範学校中等部に入学する。ここで英語を学習し始めた。ここで彼は、優秀な英語教師に恵まれるとともに、著名な英文学者小日向定次郎を祖父に持つ、小日向洋二と友達となった。
優秀な教師たちの指導、英語劇の経験、そして小日向という友人の存在によって、英語は山内にとって身近なものになっていった。(抜粋)
山内は、その後、東京大学に進学する。同級生には、大江健三郎がいる。ここで、山内は、若きイギリス詩人アントニー・スウェイトと出会っている。
スウェイトと出会った山内は、その人間性があまりに健全であることに大きな衝撃を受けた。詩人や作家というものは、自らのなかにある病的なものや反社会性を創作活動によって、文学に昇華させているのだと思い込んでいた彼は、詩人が健康的な人間たり得ることを知って驚きの目を見張った。(抜粋)
山内は、一九六二年(二八歳)の時に、ニューヨークのコロンビア大学に留学し、その後、トロント大学に移り、一旦帰国した後、また、ケンブリッジ大学に留学する。
山内久明と言えば、多くの英文学関係者はケンブリッジ大学を連想する。だが、すでにみたとおり、少なくとも彼の英語は中学校以来の地道な勉強、スウェイトによる感化、北米での留学生活などが基礎となっている。(抜粋)
山内は、徹底的に自分の中に英語回路をつくり、英語で思考し、英語で自己表現する道を選んだが、日本語が使えなくなったわけではなく、英語と日本語の回路を自在に切替ることができた。
ここで、山内は例外と言ってもいいほど英語回路を作って生活していた、英文学者マサオ・ミヨシ(三好将雄)と出会った。ミヨシは、山内と出会った時、日本語話者でありながら最後まで英語しか話さなかったという。
山内は、そこに人生の一つの選択肢を見たような気がした。・・・・中略・・・・自分にはまだ甘えがある、英語の回路で生きる決意をし、ミヨシのように英語圏にとどまり、英語による英文学研究に挑戦することが果たして自分にできるかどうか----このような問いを抱くに至る。(抜粋)
ケンブリッジ大学で博士号を取得し、山内は一九七八年に帰国した。山内はその功績により、エリザベス女王から「大英帝国三等勲爵士」の称号を与えられ、また、大江健三郎のノーベル賞講演の英語訳でも有名である。
斎藤は、『アントニー・スウェイト対訳詞選集』の山内によるあとがきに触れたのち、山内の英語についてこう評している。
「訳者あとがき」に示された「認識」に、山内が自ら立ち位置を模索していながら生涯かけてたどり着いた一つの境地を見た思いがする。そのまさに、日本に居ながらにして日本語を通じて英文学を研究する学者でもなく、英語圏に自己を投入し、自己と他者との緊張関係のなかで格闘しながらも、あくまで英語による研究を続けたミヨシでもなく、日本語と英語という二つの言語世界のはざまで、その対立と融合を激烈に体験した山内だからこそたどり着くことができた境地なのだと思う。(抜粋)
関連図書:斎藤兆史 著『英語達人列伝』 中央公論新社(中公新書)、2000年
:アントニー スウェイト (著), 山内 久明 (翻訳), 山内 玲子 (翻訳)、『アントニー・スウェイト対訳詞選集』、松柏社、2019年
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