(初出:2008-06-22)
「中国の五大小説」(上) 井波律子 著
『三国志演義』の巻ーーー興亡の歴史と物語の誕生 四 曹操の「偏愛」---典韋・呂布の最期
典韋は何度も絶叫し、地面におびただし血を流しながら、息絶えたのだった。典韋が死んでも、しばらくの間、一人として前門から突入する勇気のある者はいなかった。(抜粋)
薫卓が打たれた後、本格的な群雄割拠の時代となる。徐州を治めていた陶謙は、曹操の恨みをかい城を包囲されてしまう。そこで加勢を依頼された劉備は曹操に和睦の申し入れをするが逆に怒った曹操の猛攻撃を受ける。しかし、その時、曹操のもとに本拠地の兗州に呂布が攻め込んだという情報が入った。あわてた曹操は劉備の申し入れを受け入れて兗州に取って返した。この和睦を成立させた劉備に対して陶謙は、「徐州の支配権を譲りたい」と言うが、劉備は、それでは不義になってしまうと言って承知しない。そして結局、劉備は陶謙の死後に仮の支配者になるが、敗走してきた呂布をかくまった挙句に、乗っ取られてしまい、また、根拠地の無い境遇になってしまう。
それに反して、曹操は黄巾軍を討伐して兗州を治め、献帝の貢献人となり、やがて袁紹を破って華北の覇権を握るに至る。
曹操のもとには、兗州を治めた頃から続々と知識人や猛将が集まってきた。その中には荀や典韋などもいた。
曹操は勇猛な武人が好きであったが、特に気にいったのはこの典韋である。曹操は剛勇無双の典韋を一目で気に入り彼の親衛隊長にする。そして典韋は我が身を楯にして曹操の身を守る。しかし、典韋は女色に溺れて謀略にかかった曹操を守ろうとして、登場からわずか数回のうちに死んでしまう。曹操は、撤退した後に慟哭しながら典韋を祭る。そして
「わたしは長男と愛する甥を(この戦いで)死なせたが、深い痛みを感じない。ただ典韋のために慟哭するのだ。
(第十六回)(抜粋)
という。
曹操は、自分の子供たちには冷たいが、颯爽とした武将には目がなく、とにかく傘下に収めたくなるようなところがあった。
これに対して、呂布の最期は、また呂布らしい往生際の悪いものであった。呂布は曹操・劉備軍に城を包囲されたとき、陳宮に出撃をうながされながら、妻妾に泣きつかれて決断できずに、結局、部下に見放されて生捕になり曹操・劉備の前に引き出されてしまう。呂布は曹操に命乞いをするが、曹操は劉備に促されて彼を処刑してしまう。
『演義』では、全般的に武将にスポットが当てられていて、文官の影が薄い。さらに曹操は文官に警戒心を解くことがなかった。曹操政権成立に重要な働きをした荀にしても、曹操が「魏公」になることに反対すると、曹操により追い詰められ自殺することになる。また、後に荀攸も「魏王」になろうとした時に反対すると同様な道をたどった。
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