[再掲載]「大陸の乾いた風と「終わり」のはじまり」 (三国史演義)
井波 律子『中国の五大小説』(上)より

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(初出:2008-07-07)

「中国の五大小説」(上) 井波律子 著

『三国志演義』の巻 — 興亡の歴史と物語の誕生 十一 大陸の乾いた風と「終わり」のはじまり — 英雄たちの死

劉備が蜀を領有したころ、曹操は献帝の妻、伏后ふくこうを殺して自分の娘を皇后に立てる。そしてその後、「魏公」から「魏王」となり皇帝へ後一歩と迫る。

蜀の国内体制が固まった所で、以前として曹操の手の中にある漢中を劉備が総攻撃を行う。この戦いで劉備は圧倒的優勢となりついに漢中から曹操を追い出して、「漢中王」となった。

しかし、いい事は長く続かずまず荊州に一人残っていた関羽に悲運がおとずれる。関羽はさいさん荊州の返還の求める孫権にたいして、高圧的な態度でのぞむ、そこに劉備が漢中王になった事に腹を立てた曹操が味方をする。孫権は荊州に総攻撃をかけた。この戦いは、はじめは関羽側が優勢であったが、呂蒙ろもう陸遜りくそんの周到な計画(「呂蒙の計」)により関羽は拠点をすべて奪われ敗走し、麦城ばくじょうに逃げ込む。そして、決死の覚悟で麦城から出撃するが、結局、呉に生捕になってしまう。ここで孫権は関羽に降伏を勧めるが、もともと孫権など眼中になかった関羽は、口をきわめて罵り、惨殺されてしまう。演義の世界では関羽は死後、「顕聖けんせい-神として姿を表すこと」して以後も怨霊として活躍する。まず、関羽は「呂蒙の計」で関羽を追い詰めた呂蒙にとりつき殺してしまう。その後、孫権は関羽を殺した事で劉備に恨みを買う事を恐れ、関羽の首を曹操に送りつけた。そして、曹操もこのあと関羽に祟られ、しだいに衰弱していく。

演義はこの関羽の死あたりから大きく転換していく。関羽の死は「終わりのはじまり」をつげるメルクマール(指標)である。関羽の死後すぐに曹操も幻覚や悪夢にさいなまれてこの世を去る。
その後、曹操の息子曹丕そうひが即位して魏王朝を創立し、劉備が即位して蜀王朝を立て、それから少し遅れて孫権も即位し呉王朝を立てる。

蜀王朝を立てて皇帝となった劉備であるが、どうしても呉に攻め込み関羽の仇を取らないと気が済まないと言い張る。諸葛亮などの制止も聞かずに出陣を決めてしまう。しかし、この時もう一人の弟である張飛が自分の側近の部下に殺されるというハプニングが起こる。関羽の息子関興かんこう、張飛の息子張苟ちょうほうを伴って出陣した劉備だが、戦いは日増しに劣勢となり、結局命からがら白帝城はくていじょうに逃げ込む羽目になる。その後、劉備は体調を崩し次第に起き上がれなくなる。

ある日病状が悪化した劉備の元に、関羽と張飛の亡霊があらわれ関羽は「遠からずが哥哥ががもわれら弟とお会いになれます」と告げる。

劉備・関羽・張飛の間には幽明境を越えて、「同年同月同日に死なんことを欲す」という桃園の誓いが生きつづけており、彼らは同日には死ねなかったけれども、究極的には運命をともにし、手に手をたづさえてあの世へ旅立ってゆくのです。最晩年の劉備にとって、蜀王朝も帝位も諸葛亮をはじめとする重臣も二義的なものにすぎず、もっとも大切だったのは義弟の関羽と張飛であり、彼らと交わした桃園の誓いでした。名誉も地位もなげうち、ひたすら桃園の誓いに殉じて死んでゆく劉備は、やはり侠のなかの侠といえるでしょう。

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