「中国の五大小説」(下) 井波律子 著
[Reading Journal 1st:再掲載]
(初出:2009-04-28)
『紅楼夢』の巻 — 「美少女の園」のラディカリズム 三 美少女たちが生きる「時」 — 林黛玉の葬花
『紅楼夢』は、『金瓶梅』と違い男女のセクシュアルな関係性はほとんど描写されない。唯一宝玉についてのセクシュアルな場面も夢の中の話である。宝玉は、林黛玉をはじめとする美しい少女たちには、誰でも好意を寄せるが、その関心のありようにセクシュアルな要素は認められない。このような宝玉を天上世界の女神は「意淫」の人だと言っている。
宝玉はひたすら「意淫」の人として、さまざまなタイプの美少女の「良き友」でありつづけようとするのです。
賈家に入った黛玉は、賈母の計らいで宝玉と兄妹のように過ごすうちに、互いになくてなならない存在になる。他の少女は、「四書五経」などを見向きもせず少女たちと遊び暮らす宝玉をたしなめる事もあるが、黛玉だけはそんな宝玉を深く理解していた。
この黛玉は、プライドが高く癇にさわる事があれば癇癪を起すような激しさを秘めていた。よわよわしい薄幸の美少女というイメージが流布しているが、実際の黛玉は格段に複雑微妙である。
快活は黛玉は、少女世界で人気者であったが、親しい宝玉に対しては、感情がほとぼしるまま、激しい怒りを爆発させたり、感情を高ぶらせて涙にくれたりする。
たがいに相手を大切に思いながら、気持ちがすれちがい、些細なことでいがみあったあげく、黛玉は興奮して涙にかきくれ、彼女を泣かせてしまった宝玉はひたすら後悔するばかり。こうした二人の姿は、恋愛心理の原型をあざやかに浮き彫りにしたものにほかありません。
宝釵は黛玉にひけをとらないほど知性と教養を持っていたが、黛玉とは対照的なパーソナリティであった。彼女は、つねに穏やかで常識的な典型的な調和型の少女である。体型も痩せ型の黛玉と対照的にむっちりと豊満である。
『紅楼夢』の名場面に「葬花」と呼ばれるものがある。ここでは、宝玉と黛玉が『西廂記』『牡丹亭還魂記』をめぐっていかにも恋人どうしらしい会話をかわしている。
大観園に住む少女たちは概して高い教養をもっている。彼女たちは宝玉を交えて詩を作って出来栄えを競いあったりする。少女たちがすぐれた詩を作るのに対して、宝玉は調子はずれの妙な歌を作って笑われてしまう。しかし宝玉は腹を立てずに彼女たちの批判を受けとめる。
宝玉はみずからを最下層において、黛玉や宝釵をはじめとする少女たちが、それぞれの才能を存分に発揮し活躍するさまを、映しだそうとしているのです。一見、愚かな痴れ者にすぎない宝玉の最大の長所は、少女たちじしんが無意識のうちに育む少女世界を、こうして客体化する姿勢をとりつづけるところにあります。みずからは影となって、少女たちを輝かせるという点において、宝玉はたしかに先行する、『三国志演技』の劉備、『西遊記』の三蔵法師、『水滸伝』の宋江、『金瓶梅』の西門慶と同様、「虚なる中心」的な要素が残存しています。しかし、これら先行作品の中心人物との明らかな差異は、彼が黛玉を頂点とし侍女にまで及ぶ少女たちの世界を、総体として意識的にとらえることができたというところにあります。こうした中心人物を設定することによって、『紅楼夢』は、「語り物」や「物語」の地平からあざやかに離陸し、近代的な「小説」へとかぎりなく接近したといえるでしょう。
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