[再掲載]「『源氏物語』-女性たちのドラマ」
鈴木健一 『知っている古文の知らない魅力』より

Reading Journal 1st

「知っている古文の知らない魅力」 鈴木健一 著 
[Reading Journal 1st:再掲載]
(初出:2006-05-24)

第一章 『源氏物語』- 女性たちのドラマ

第一章は源氏物語。その冒頭は、

いづれの御時おほむときにか、女御にょうご更衣かういあまたさぶらひた まひける中に、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方々、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下げらふの更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ 積もりにやありけん、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもはばからせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。上達部かんだちめ上人うえびとなども、あいなく目をそばめつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土もろこしにも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れあしかりけれと、やうやう、あめの下にも、あぢきなう人のもてなやみぐさにな りて、楊貴妃やうきひの例も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心みこころばへのたぐひなきを頼みにてまじらひたまふ。

(どの帝の御代であったか、女御や更衣たちが大勢お仕えしておられた中に、たいして高い家柄の生まれではない方で、目だって帝の寵愛をうけていらっしゃる 方があった。宮仕えを始める時から、私こそはと自負しておられた方々は、<この方を>目に余る者とさげすんだり憎んだりなさる。同じ身分、あるいはそれより低い身分の更衣たちは、なおさら心が穏やかではない。朝夕の宮仕えにつけても、皆に気をもませてばかりいて、恨みを受けることが積もり積もったからだろう か、たいそうやまいがちになっていき、どことなく頼りなげで里下がりが続くので<帝は>ますますたまらなくいとしいと思いになられて、誰の批判も気になさる余裕もなく、世間の語り草になってしまいそうななさりようである。上達部、殿上人までも、困ったことだと憎んで目をそらせて、とても見るにたえないほどのご寵愛ふりである。唐土でも、このようなことが原因となって、世の中が乱れ、ひどいことになったのだと、しだいに世の中でも、おもしろくないこと と、人々の苦労の種になって、楊貴妃の例までも引き合いに出されそうになっていくので、<更衣は>まことにいたたまれない思いをすることが多いけれども、 恐れ多い<帝の>ご寵愛の類稀たぐいまれであることを頼りにして宮仕えをしていらっしゃる。)(抜粋)

まず、冒頭において2つの舞台設定がなされている。

舞台設定(一)
一つは「いづれの御時にか」の書き出しである。
源氏物語以前は多くの物語の書き出しは「今は昔」であった、それは、今とは直接関係ない昔とくニュアンスがこめられている。
しかし、「いづれの御時にか」の書き出しはぼかしてはあるが、近い時代のどこかというニュアンスが読み取れる。
多くの説では、その時代を源氏物語の時代よりさらに100年さかのぼった醍醐天皇の時代としている。

舞台設定(二)
二つめは「楊貴妃の例」という部分。これは、中国・唐の詩人、白楽天(白居易)が詠んだ「長恨歌ちょうごんか」の事をさす。この長い漢詩には、玄宗皇帝が楊貴妃の愛に溺れ、政治をおろそかにして、結果的に案禄山の乱が起き楊貴妃が殺されるストーリーが描かれている。

「楊貴妃の例」ということばを用いて、「長恨歌」の世界が意識されることで、一人の女性への愛に惑溺した帝の悲劇的運命が重ね合わされていくのです。(抜粋)

冒頭部分の読みどころは、「いとやむごのなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」である。
「やむごとなき際」の女性は、背後に父や兄弟の支援がある。当時は大きな支援がある「やむごとなき際」の女性が「すぐれて時め」くのが普通であるが、源氏物語では、「やむごとなき際にはあらぬ」更衣が「すぐれて時め」いて帝の寵愛を独占してしまう。
これは、当時の読者には大変衝撃的なものであった。

源氏物語の人気は登場する個々の女性のキャラクターの多彩さが大きい面がある。その女性たちのイメージは後代においても用いられる。
鎌倉時代の物語評論である『無名草子むみょうぞうし』は、大半を源氏物語に費やしている。その中で、源氏物語の登場人物を評論している。

紫の上については、

いとほしき人、紫の上。
限りなくかたびかしくいとほしく、あたりの人の心ばへぞいと憎き。父宮をはじめ、おほぢの僧にいたるまで、思はしからぬ人々なり。
継母ままははなどの心ばへ、さるべき仲なれど、さばかりなりぬる人のために、いとさしもやはあるべき。

(いとしい人は、紫の上。この上なくひいきしたくなるほどかわいそうで、まわりの人々の気持ちまでたいそう憎らしい。父宮をはじめ、老翁の僧にいたるま で、気に食わない人々である。継母などの心の動きとして継子にはつめたいのは当然だが、光源氏の妻にまでなった人に対して、どうしてそのようにふるまって よいものだろうか。)

と述べられ、絶賛されています。(抜粋)

夕顔のイメージが取り込まれているものに、江戸時代の『牡丹灯篭』がある。夕顔は五条大路にやってきた光源氏と偶然出会い、五条大路の家で逢瀬のあと、物の怪もののけに教われて急死してしまう。
牡丹灯篭では、舞台を五条大路に設定することにより、読者の多くに夕顔のイメージを想像させ、<謎めいた女性と邂逅し、怪異を伴った悲劇的な結果が待っているドラマ>という期待をもたせている。

また上田秋成の『雨月物語』の「浅芧が宿」は、都に上った夫の帰郷が遅れたため、妻が待ち暮らしているうちに死んでしまい、亡霊になって夫を迎える、という話である。
ここでは「浅芧が宿」という題名が源氏物語の「浅芧が原」を連想させる事により、源氏物語で須磨に退居した光源氏をひたすら待ち続けた末摘花を思い起こさせている。

『源氏物語』は、読者が感動するためのスイッチになっているのです。『源氏物語』に基づいた作品を読んで、「あっ、これは源氏世界がベースになっているな」とわかった時、それは源氏的な感動のスイッチがオンになったということなのです。 『源氏物語』のもたらすものと、『源氏物語』に基づいた作品がもたらすもので、感動は二倍、もしくは増幅されて数倍になるのではないでしょうか。(抜粋)

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